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慧生は読書家であったが、その関心の一部は中国文学や[[漢詩]]、自身の先祖にあたる[[清]]王朝に関する書物などに向けられていた。
 
[[1955年]](昭和30年)<ref>年は[渡辺1996年、144頁]による。</ref>、父の従弟の[[愛新覚羅溥儒|溥儒]]([[:zh:溥儒|zh]])が来日してしばらく逗留した際には、その通訳をしている。慧生は溥儒によって佩英(ペイイン。水晶の飾り玉のこと)という号をつけてもらっている。溥儒が来てから、慧生の中国人としての自覚は一段と高まり、私服で外出するときは好んで高い詰襟の[[チャイナドレス|中国服]]を着るようになった。
 
その一方で、慧生自身が大学時代に親友に中国へ帰国する意思のないことを打ち明けている<ref>「お母様は私が中国へ帰るものと思い込んで、中国語を習わせたりして期待してくださっているので、とても悪くて、帰る意思がないなんてことは言えないの。私が中国に帰りたくないというのは、武道さんとの結婚とは別の問題なのよ。それ、わかるでしょう。」[穂積ほか1961年]</ref>。