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羲之は会稽に赴任すると、山水に恵まれた土地柄を気に入り、次第に[[詩]]、[[酒]]、[[音楽]]にふける清談の風に染まっていき、ここを終焉の地と定め、当地に隠棲中の[[謝安]]や[[孫綽 (東晋)|孫綽]]・[[許詢]]・[[支遁]]ら名士たちとの交遊を楽しんだ。一方で会稽一帯が飢饉に見舞われた時は、中央への租税の減免を要請するなど、地方行政にも力を注いでいる。
 
[[354年]]、かねてより羲之と不仲であった[[王述]](琅邪王氏と遠縁筋の[[太原王氏]]出身)が会稽内史を管轄する揚州刺史となる<ref>『[[晋書]]』王羲之伝によると、王羲之は前任の会稽内史であった王述を軽んじていた上、彼が母の喪に服していたときも、一度しか弔問に訪ねなかったことから、王述は王羲之を恨むようになったという。また『[[世説新語]]』仇隙篇によると、王羲之は王述の母の弔問に赴くといっては、たびたび取り下げ、ようやく訪れたときも、喪主の王述が哭礼している前に進み出ず、そのまま帰ってしまうなど、王述を大いに侮辱したという。</ref>。王羲之は王述の下になることを恥じ、会稽郡を揚州の行政機構からはずすよう要請したが却下された。王述が会稽郡にさまざまな圧力をかけてくると、これに嫌気が差した王羲之は、翌[[355年]]、[[病気]]を理由に官を辞して隠遁する。官を辞した王羲之はその後も[[会稽]]の地にとどまり続け、当地の人士と山水を巡り、[[仙道]]の修行に励むなど悠々自適の生活を過ごしたという。
 
[[衛恒]]([[衛カン|衛瓘]]の子)の族弟である[[衛展]]の娘で、汝陰の太守李矩の妻となった[[中国の書家一覧#衛鑠|衛夫人]]から、[[後漢]]の[[蔡ヨウ|蔡邕]]、[[魏 (三国)|魏]]の[[鍾ヨウ|鍾繇]]の書法を伝授され、その法を枕中の秘とした。7歳の時から衛夫人のもとで書を学び、12歳の時に父の枕中の秘書を盗み見、その技量が進んだ。さらに各地を巡って古書を見、寝食を忘れて精進し、楷書・行書・草書の各書体について一家をなした。