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[[ファイル:Kagoshima Castle air.jpg|250px|thumb|鹿児島城の航空写真<br>(1974年撮影・国土航空写真)]]
[[ファイル:Kagoshima castle1.JPG|250px|thumb|石垣と水堀]]
'''鹿児島城'''(かごしまじょう)は、[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[城山 (鹿児島市城山町)|城山]][[麓]]にあった[[江戸時代]]の[[日本の城]]である。鹿児島では、一般的に古くから別名「'''鶴丸城'''(つるまるじょう)」。鹿児島では一般的に古くから別で呼ばれ、現地案内図や看板などは「鶴丸城」表記ほぼ統一さ呼ばれており、「鹿児島城」での表記はほとんどな。別名の由来は、屋形の形状が鶴が羽を広げたようであったことによる。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
 
[[1601年]]([[慶長]]6年)に[[島津忠恒]](家久)により築城され、以後[[廃藩置県]]まで[[島津氏]]の居城であった。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
 
== 概要 ==
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忠恒(家久)の実父の義弘は海岸に近いこの地は防御に問題があり城を築くのに適さないとし、最後まで築城に反対していた。家康の薩摩征伐は実施されることなく、[[薩摩藩]]は外様大名として存続を許されることとなり、忠恒の代に鶴丸城が実戦で用いられることはなかった。しかし、数百年後、[[幕末]]の[[薩英戦争]]の時に義弘の懸念は現実のものとなり、[[イギリス]]軍艦から奥御殿に砲弾を何発か打ち込まれるなど脅威にさらされることになる。しかし、簡素な造りだったためにイギリス軍艦は寺を天守と間違えて砲撃している。
 
鹿児島は災害の多い地域でもあり、また南国でもあったため[[シロアリ]]被害が多く、また幾度も焼失・倒壊し、そのたびに建て替えが行われた。[[1874年]]([[明治]]7年)に焼失したのちは再建されることはなかった。

[[1901年]]以降、城址は[[第七高等学校造士館 (旧制)|第七高等学校造士館]]の校地として使用され、戦後、[[鹿児島県立大学]]医学部、国立鹿児島大学医学部基礎教室、現在は本丸跡に[[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]、二の丸跡には[[鹿児島県立図書館]]、[[鹿児島市立美術館]]、[[鹿児島県立博物館]]などが建っている。
 
[[2006年]](平成18年)4月6日、[[日本100名城]](97番)に選定された。
 
== 城下町 ==
鹿児島城の城下町は、上町(かんまち)、下町及び、上町・下町のどちらにも属さない町を含め47町から構成されていた。明治時代の[[市制]]施行時に城下町に当たる区域は全て[[鹿児島市]]を構成することとなった。
 
また、城下町及び城下町に隣接する鹿児島近在には[[鹿児島藩|薩摩藩]]の地方支配制度である[[外城制]](とじょうせい)は適用されず、鹿児島藩庁の直轄支配を受けた<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjhg1948/14/3/14_3_236/_pdf 鹿児島県の都市階層と分布の分析] - 鈴木公</ref>。
 
上町は鎌倉時代より守護が居住していた東福寺城の城下に守護町が形成されたのが始まりであると言われており、その後現在の[[鹿児島市立清水中学校]]付近に移転したころより町屋が広がり始め、町屋敷群が形成された。また、海沿いに位置していた恵美須町などは海運、漁業などで栄え、それに従事する者や商人などが居住していた<ref name="kanmachi">『鹿児島上町の歴史と文化』 - 鹿児島玉龍高等学校(現在の[[鹿児島市立鹿児島玉龍中学校・高等学校]]) pp.119-120</ref>。
 
上町(かんまち)は市制施行時の小川町、和泉屋町、恵美須町、車町、栄町、柳町、浜町、向江町の区域にあたり<ref>『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』 角川書店 p.229</ref>、鹿児島城の堀の西端部から海岸へ流れる名山堀より北側の区域に該当する<ref name="kanmachi"/>。
 
一方、名山堀より南側は下町(しもまち)と呼ばれ、山下町、易居町、生産町、六日町、築町、汐見町、泉町、金生町、中町、呉服町、大黒町、堀江町、住吉町、船津町、新町、松原通町が下町の区域にあたり、下町も上町と同様に町屋敷が連なる区域であった<ref>『角川日本地名大辞典 46 鹿児島県』 角川書店 p.346</ref>。
 
また、鹿児島城下に属すが、上町及び下町のどちらにも属していない町は新照院通町、薬師馬場町、鷹師馬場町、西田町、平之馬場町、西千石馬場町、東千石馬場町、加治屋町、山之口馬場町、樋之口通町、新屋敷通町、下荒田町、高麗町、上之園通町、冷水通町、長田町、下竜尾町、上竜尾町、池之上町、皷川町、稲荷馬場町、清水馬場町、春日小路町があった。これらの区域の多くは武士屋敷群から構成されており、鹿児島城付近に上級武士、郊外に下級武士や郷士が居住していた。
 
== 現状 ==
[[File:TsurumaruCastleStoneWall.JPG|thumb|石垣に残る[[西南戦争]]の際についたといわれる弾痕(2011年5月)]]
遺構として[[石垣]]や[[堀]]、[[西郷隆盛]]の[[私学校]]跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存している。私学校の石垣には[[西南戦争]]の際についたといわれる弾痕が数多く残っている。

2014年現在、大手門にあたる御楼門の復元プロジェクトが鶴丸城「御楼門」復元委員会によって進められている。
 
== 城域一帯の施設 ==
=== 本丸跡 ===
* [[鹿児島県歴史資料センター黎明館]]
 
=== 二の丸跡 ===
* [[鹿児島県立図書館]]
* [[鹿児島市立美術館]]
* [[鹿児島県立博物館]]
* [[西郷隆盛像]]
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==