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[[第二次世界大戦]]後の晩年には、時代の趨勢により[[テレビ]]に押された「映画」の復権をめざすようになった。デミルにとって映画は自らの人生を賭けた王国であり領域であった。
 
既に映画界での名声を確かなものにしていたデミルは、監督以外でも[[ビリー・ワイルダー]]の『[[サンセット大通り (映画)|サンセット大通り]]』(1950年)に本人役で[[カメオ出演]]し、その存在感を示している。この頃の監督作品である『[[地上最大のショウ]]』(1952年)では翌年の[[第25回アカデミー賞]]の[[アカデミー作品賞|作品賞]]、[[アカデミー脚本賞|脚本賞]]を獲得し、[[アカデミー監督賞|監督賞]]にノミネートされた<ref>一方でこの年の作品賞レースの行方は『[[真昼の決闘]]』(フレッド・ジンネマン監督)と『[[静かなる男]]』(ジョン・フォード監督)の[[一騎討ち]]、との予想がほとんどで、デミルは既に[[アービング・G・タルバーグ賞]]の受賞が決まっており、『地上最大のショウ』はノミネートこそされたものの、受賞はあり得ないと言われていた中、全く予想外な結果だったことに対し、マスコミからは「受賞理由不明の作品賞」と揶揄された。2作品が拮抗し票が割れてしまった事や、テレビが普及し映画離れが深刻化する中、こうしたスペクタクル映画こそが「映画復興の術」と評価された事などが受賞につながったとの見方がなされている。 {{Cite web |url=http://moviepad.jugem.jp/?eid=295&guid=ON&view=mobile&tid=3|title=第25回(1952年)アカデミー賞|publisher=映画のメモ帳+α |date=2009-01-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131021065343/http://moviepad.jugem.jp/?eid=295&guid=ON&view=mobile&tid=3|archivedate=2013-10-21|accessdate=2013-10-21}}</ref>。また[[1952年]]、[[ゴールデングローブ賞]]を運営する[[ハリウッド外国人映画記者協会|HFPA]]は「エンタテインメント業界に多大なる貢献をした人物に与えられる、従来の部門やカテゴリーの枠を超越した永年功労賞」の新設を決め、ゴールデングローブ賞の中に、サイレント時代から斬新なアイデアでスペクタクル映画を製作し、映画界を先導してきたデミルの名を冠した「[[ゴールデングローブ賞 セシル・B・デミル賞|セシル・B・デミル賞]]」が設けられた<ref name="Cecil B. DeMille Award">{{Cite web|url=httphttps://www.amazon.co.jp/gp/feature.html?ie=UTF8&docId=1000317026|title=セシル・B・デミル賞とは|publisher=[[Amazon.co.jp]]|archiveurl=https://web.archive.org/webis/20131021015808/http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html?ie=UTF8&docId=1000317026|archivedate=2013-10-21|accessdate=2014-01-16}}</ref>。映えある第1回受賞者はデミル自身である。
 
より多くの集客をめざし、大作映画に見せ物的要素を加えるなどの工夫をこらした。[[1956年]]、75歳にしてかつての自分の作品『[[十誡 (映画)|十誡]]』(1923年)を新たに撮り直し、既に重篤な[[心臓発作]]に見舞われる中、執念で『[[十戒 (映画)|十戒]]』を製作・監督。翌年の[[第29回アカデミー賞]]では作品賞にノミネートされ[[アカデミー視覚効果賞|特殊効果賞]]を受賞している。