削除された内容 追加された内容
BD2412 (会話 | 投稿記録)
lk調整
103行目:
江戸時代から北海道[[道南]]の[[渡島半島]]南部では稲作が行われていたが、明治に入ると[[道央]]の[[石狩平野]]でも栽培されるようになった。[[中山久蔵]]などの農業指導者が寒冷地で稲作を可能とするために多くの技術開発を行い、かつて不毛の[[泥炭地]]が広がっていた石狩平野や[[上川盆地]]は広大な水田地帯に変じ(道央水田地帯)、新潟県と一二を争う米どころとなっていった。
 
こうして昭和初年には、米の生産高は明治11〜15年比で2倍以上に増加したが<ref>米穀市場の近代化[http://www.maff.go.jp/primaff/koho/seika/nosoken/nogyosogokenkyu/pdf/nriae1969-23-1-1.pdf]</ref>、それにもかかわらず昭和初期には幕末の3倍近くにまで[[人口爆発|人口が膨れ上がった]]ことにより、日本内地の米不足は深刻であり、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]や[[日本統治時代 (台湾)|台湾]]からの米の移入で不足分を賄う有様となった。
 
戦後、国内生産が軌道に乗ってからは、政府が米を主食として保護政策を行ってきた。不作を除いて輸入を禁止し、流通販売を規制した。自主流通米は量を制限し、政府買い上げについては、買い上げ価格より安く赤字で売り渡す逆ザヤにより農家の収入を維持しつつ、価格上昇を抑制する施策をとってきた。農閑期に行われていた出稼ぎは、稲作に機械化が進み人手が余り要らなくなったため、「母ちゃん、爺ちゃん、婆ちゃん」のいわゆる「三ちゃん農業」が多くなり、通年出稼ぎに行く一家の主が増え、専業農家より兼業農家の方が多くなった。1970年代になると[[田植機]]による[[田植え]]の機械化などにより、米の生産量が消費量を大きく越え、政府によって[[減反政策]]などの生産調整が行われるようになった。