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有史前の遺跡として太平村遺址が見つかっており、古来からの人類の活動の証拠が得られている。[[1622年]]以前より[[原住民]]の[[ケタガラン族]]が小番社(集落)を形成して居住していた。明朝時代より[[鄭成功]]政権時代にかけては、北路天興県の管轄化とされたが、交通の便がよくなく漢人の入植は進まなかった。清朝初期([[1662年]]~[[1682年]]頃)より漢人の台湾北部への入植が進み、大南湾社荘、小南湾社荘などの集落を形成していった。そして[[嘉慶 (清)|嘉慶]]年間([[1735年]]~[[1819年]])には開発は林口まで伸び闢粉寮、水尾、中湖、頭湖、後湖、竹囲子、新寮などの集落が設置されるに至った。
 
[[1895年]]、[[日本統治時代 (台湾)|日本よる統治]]が始まると台北県が設置され、林口は淡水支庁の管轄下に置かれた。[[1898年]]5月2日には行政改革により滬尾弁務署の管轄化となった。その後も行政改編は続き[[1901年]]には弁務署が廃止され台北庁滬尾支庁の管轄となったが、当時の林口は小部落が点在する程度であったが、茶葉栽培を指導する茶葉伝習所が設置されるなど産業振興も実施された。
 
[[1909年]]、滬尾支庁の下に署が設置され、林口郷の南西部は新荘支庁樹林口区の管轄に、東北部は滬尾庁大南湾区の管轄となり、[[1920年]]9月,庁を廃して州を設置し[[台北州]]新荘郡林口庄と改編され終戦を迎える。戦後は林口郷と改称され台北県新荘区の管轄となり、[[1950年]]8月16日に区が廃止され県の直轄となった。当時の林口郷は7村を擁していたが、[[1950年代]]初期に13村に増加し、[[1978年]]3月26日に宝斗村が廃止され12村に、[[2002年]]2月1日に現在の17村となっている。[[2010年]][[12月25日]]には台北県が新北市に改編されたことに伴い'''林口区'''と改編され現在に至っている。