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|katakana = シェンヤン
|language_type1 = 満州語
|language1 = [[ファイル:mukden1.png{{MongolUnicode|15px]]ᠮᡠᡴᡩᡝᠨ}}
|language_type2 = 満州語ローマ字転写
|language2 = Mukden
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'''瀋陽市'''(しんようし/シェンヤンし、[[中国語]]:沈阳市、[[英語]]:Shenyang、[[満州語]]:Simiyan:simiyan hoton、Mukdenšen yang hecen<nowiki/><ref>『満洲実録 巻八』 ——四王迎至'''沈陽'''北岡,宴之。 ——'''šen yang hecen'''({{MongolUnicode|ᡧᡝᠨ<br>ᠶᠠᠩ<br>ᡥᡝᠴᡝᠨ}}) i amargi ala de acafi amba sarin sarilafi gajime jidere de,……</ref>、mukden hoton)は、[[中華人民共和国]][[遼寧省]]の[[省都]]。欧米諸語では、'''ムクデン'''(Mukden)(mukden)の名もよく用いられる。市名は、「瀋水ノ陽」の意味で、市内の南部を流れる[[渾河]]の古名・瀋水の北に位置することから由来する。
瀋陽市の常在人口は825万人(その中、都市部人口625万人)、従来より東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地である。
北京から東北3省、朝鮮半島へ繋ぐ枢要地を占めるため、高速道路、高速鉄道・鉄道在来線が放射線状で密集しており、東北地方の最大級の鉄道と空路の運輸能力を持つ。
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[[唐|唐代]]は[[瀋州]]が置かれ、[[元 (王朝)|元代]]には[[瀋陽路]]、[[明|明代]]には[[瀋陽中衛]]が設置された。
 
[[17世紀]]初、[[サルフの戦い]]に勝利した[[満州民族|満洲族]]の[[ヌルハチ]]は[[後金]]を建国、瀋陽を都城と定め、[[1634年]]([[天聡]]8年)には'''盛京'''([[満州語]]:Mukden:mukden hoton、ムクデン・ホトン)と改称された。その後[[清]]と国号を改めた後金は[[1644年]]([[順治]]元年)に[[明|明朝]]の滅亡後の中国を支配し、[[北京市|北京]]に[[遷都]]するが、盛京はその後も副都とされた。[[1657年]]には'''奉天府'''(Abkaiabkai aliyangga fu)が設置され、形式的ながら中央政府に準拠した官制が整備され、現在でも[[ホンタイジ]]時代に主要部分が建設された[[瀋陽故宮]]が残っている。[[1664年]]([[康熙]]3年)には'''承徳県'''(Erdemuerdemu be aliha hiya)が新設され、奉天府の府治とされた。
 
[[19世紀]]後半以降、それまで[[漢民族]]の移動が認められなかった[[満州|満洲]]が、[[ロシア帝国]]の[[南下政策]]に対抗すべく、禁地政策が解禁され開発が急速に推進されると、瀋陽は地域の中心としての役割を担うようになった。[[1903年]]には[[東清鉄道]]南満州支線が完成してロシア帝国の勢力下に入り、[[日露戦争]]中の[[1905年]]、[[奉天会戦]]の舞台となる。
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中華人民共和国が成立した[[1949年]]には中央直轄市に昇格、[[1954年]]に地級市に改編され遼寧省の省会として現在に至る。以上の歴史原因より、未確認のままの残留邦人が多数住んでいる。
 
満州時代の地図から見られるように、市内は大きく東・西の2部分に分かれる。
東半分は、旧城郭を中心とした地域;
西半分は、満鉄付属地を中心とした地域。