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『年譜宮沢賢治伝』を出典に加筆。さらに使えそうな文献も挙げました。年号はWikipedia:表記ガイド#年月日・時間に従い修正。
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{{出典の明記|date=2017-07}}
'''藤原 嘉藤治'''(ふじわら かとうじ [[1896年]]([[明治29年]])[[2月10日]]-[[1977年]]([[昭和52年]])[[3月23日]])は、[[日本]]の[[音楽 (教科)|音楽]][[教員]]。[[岩手県]]出身。筆名として、藤原草郎、藤原嘉菟治がある
 
岩手県立花巻高等女学校(現・[[岩手県立花巻南高等学校]])の教員時代に[[宮沢賢治]]と知り合い、賢治が没するまで親交を持った。賢治の没後は宮沢賢治全集の編纂に携わった。[[太平洋戦争]]後は故郷である[[紫波町]][[東根山]]の麓に開拓農民として入植し、開拓団のリーダーとして活動した。
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交換教授では嘉藤治が音楽を教え、賢治はドイツ語を嘉藤治に教えた<ref name="horio"/>。加えてお互いに持ち寄ったクラシックレコードの鑑賞会を開いた(嘉藤治は学校に買わせていた)<ref>堀尾、1991年、p.211</ref>。賢治に詩集『[[春と修羅]] 第二集』の刊行(生前に実現せず)を勧め、賢治が書いた序文には「まづは友人藤原嘉藤治 菊池武雄などの勧めるまゝに」と記されている<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/47027_37961.html 春と修羅 第二集] - 青空文庫。なお、ともに名を挙げられている菊池武雄は、童話集『[[注文の多い料理店]]』の挿絵を描いた人物である。</ref>。
 
[[1927年]]、賢治の仲人で青森出身の女性と結婚<ref>『年譜 宮沢賢治伝』では挙式の時期について、「九月」(p.218)「十一月」(p.270)と異なる内容が記されている。</ref>。相手は花巻の料理店でウェイトレスを務めていた女性で、賢治とともに入店した際に、好きなタイプだと述べたところ賢治が求婚を促して結ばれた<ref "horiop217">堀尾、1991年、pp.217 -218</ref>。賢治は相手の実家にも赴いて話をとりまとめた<ref name="horiop217"/>。長女と長男は賢治が名付け親である。
 
藤原は[[チェロ]]を所有してグループで弦楽四重奏をしていたが、盛岡公会堂で演奏の機会に、穴の開いた自分のチェロを、より高級な賢治のチェロと交換して持参した<ref name="horiop212">堀尾、1991年、pp.212 -213</ref>。賢治のチェロはそのまま戦争中も藤原の手元で保管され、賢治の実家の空襲被害から免れることができた<ref name="horiop212"/><ref>賢治のチェロは、現在は[[花巻市]]の宮沢賢治記念館で保存展示されている。</ref>。[[1932年]]9月23日、藤原が伴奏する教え子二人の合唱が[[NHK仙台放送局|仙台放送局]]からラジオ番組で放送され、賢治はその感想を手紙で書き送っている<ref name="horiop212"/><ref>堀尾、1991年、pp.405 - 406</ref>。