「ミャンマー」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Sinhako (会話 | 投稿記録)
124行目:
[[1988年]]にはネ・ウィン退陣と[[民主化]]を求める大衆運動が高揚し、同将軍は7月にBSPP議長を退く([[8888民主化運動]])。同年9月18日に[[政権]]を離反した[[ソウ・マウン]]率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度'''ビルマ連邦'''へ改名した。総選挙を[[公約]]としたため、全国で数百の[[政党]]が結成される。軍部は[[国民統一党 (ミャンマー)|国民統一党]]を結党し体制維持をはかった。民主化指導者[[アウンサンスーチー]]らは[[国民民主連盟]] (NLD) を結党するが、アウンサンスーチーは選挙前の[[1989年]]に[[自宅]][[軟禁]]された。以降、彼女は長期軟禁と解放の繰り返しを経験することになる。[[1988年]]1月、ビルマ共産党 (CPB) 内部で、インド系上層部と[[ワ族]]・コーカン族の下部組織との間で武力闘争が起こり、上層部が中国へ追放されてビルマ共産党が崩壊し、[[1989年]]に{{仮リンク|ワ州連合軍|en|United_Wa_State_Army}}が結成された。この時、[[キン・ニュン]]が、利用価値を見いだしたロー・シンハンを派遣して停戦調停を行なった。
 
[[1989年]][[6月4日]]、[[中華人民共和国|中国]]で[[六四天安門事件|天安門事件]]が勃発。[[1989年]][[6月18日]]に軍政側は'''ミャンマー連邦'''へ国名の改名を行った。[[1989年]]12月、[[マルタ会談]]。[[1990年]]5月の総選挙({{日本語版にない記事リンク|1990年ミャンマー総選挙|en|Myanmar general election, 1990}})ではNLDと民族政党が圧勝したが、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否し、民主化勢力の弾圧を強化する。前後して一部の総選挙当選者は[[海外|国外]]に逃れ、亡命政権として[[ビルマ連邦国民連合政府]] (NCGUB) を樹立した。[[1991年]][[12月25日]]、[[ソ連崩壊]]。
 
[[1992年]][[4月23日]]に[[タン・シュエ]]が首相に就任。軍事政権は[[1994年]]以降、新憲法制定に向けた国民会議における審議を断続的に開催していた。同1994年6月から[[中華人民共和国|中国]]が{{仮リンク|ココ諸島 (ビルマ)|en|Coco Islands|label=大ココ島}}を賃借し、中国はレーダー基地と[[軍港]]を[[建設]]した。この中国の海洋戦略は[[真珠の首飾り作戦]]と呼ばれている。[[1997年]]11月、国家法秩序回復評議会({{lang-en-short|State Law and Order Restoration Council}}、略称:SLORC)が[[国家平和発展評議会]]({{lang-en-short|State Peace and Development Council}}、略称:SPDC)に名称変更した。[[2000年]]9月、アウンサンスーチーが再び自宅軟禁された。[[2002年]]12月、ネ・ウィンが死去。