「ドミニカ共和国」の版間の差分

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その後、スペイン領内では停滞が続いていたが、[[フランス革命]]の影響を受けて[[1791年]]にサン=ドマングで起きていた[[ハイチ革命]]の波及や、フランス革命戦争最中の[[1795年]]に[[バーゼルの和約]]が結ばれた結果、イスパニョーラ島全島がフランス領(=サン・ドマング領)となるが、幾度かの変遷を経て1801年にサン・ドマングの軍人[[トゥーサン・ルーヴェルチュール]]の攻撃により最終的に占領され、黒人奴隷が解放された。トゥーサンはイスパニョーラ総督として島を統治するつもりでいたが、ナポレオン軍の侵攻により、トゥーサンが捕らえられ、獄死すると、ハイチ革命の新指導者[[ジャン=ジャック・デサリーヌ|デサリーヌ]]は[[1804年]]にフランス軍を破ってハイチと改名し、サン=ドマングと共にサント・ドミンゴもハイチの一部として独立した(ハイチはアラワク族の言葉で山がちな土地を意味する)。
 
しかし、1809年にサント・ドミンゴは再びスペインの支配下に戻り、その後の[[1814年]]、{{仮リンク|[[パリ条約 (1814年)|en|Treaty of Paris (1814)|label=パリ条約}}]]で再び東側は正式にスペイン領となるが、折から[[シモン・ボリーバル]]や[[ホセ・デ・サン=マルティン]]、{{仮リンク|ホセ・ヘルバシオ・アルティーガス|en|José Gervasio Artigas|label=ホセ・アルティーガス}}らによってラテンアメリカで進められていた解放戦争の中で、サント・ドミンゴの[[クリオージョ]]にも独立の気運が高まり、1821年11月30日に{{仮リンク|スペイン人ハイチ共和国|es|Estado Independiente de Haití Español|en|Republic of Spanish Haiti}}として独立した。この政権は[[シモン・ボリーバル]]の指導する[[大コロンビア|コロンビア共和国]]への加入を求めたが、王党派と独立派での間で内戦になり、その隙を突かれて[[1822年]]1月には再び隣国ハイチの[[ジャン・ピエール・ボワイエ]]に占領された({{仮リンク|ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領|es|Ocupación haitiana de Santo Domingo|en|Unification of Hispaniola}})。
 
=== 再独立と再植民地化 ===