「隅田川花火大会」の版間の差分

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[[ファイル:100 views edo 098.jpg|230px|thumb|広重「[[名所江戸百景]]」に描かれた両国花火]]
[[File:Sumidagawa Fireworks Festival2012.jpg|thumb|スカイツリー開業後初となる隅田川花火大会の様子。]]
'''隅田川花火大会'''(すみだがわはなびたいかい)は、[[東京都]]の[[隅田川]]沿い([[台東区]][[浅草]](右岸)・[[墨田区]][[向島 (墨田区)|向島]](左岸)周辺)の[[河川敷]]において毎年[[7月]]最終土曜日に行われる[[花火]]大会である。毎年8月に開催される[[江戸川区花火大会]]とともに[[日本の花火大会一覧#関東地方|東京二大花火大会]]の一つに数えられる。
 
== 概要 ==
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鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。当時評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と[[川柳]]にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は幕末期([[1843年]])に失火事故を起こし、半丁ほどの町並みを焼失させた罪で、江戸処払い(追放)を命じられ、1代限りで断絶した。ただし、その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。一方の鍵屋は、日本最古の花火会社「株式会社宗家花火鍵屋」として現存している。因みに、それまで難しい技術とされていた、同心円状に飛散する花火を明治期に及させたのが鍵屋である。
 
日本で最初に花火を観賞した人物は、一般的には[[徳川家康]]と言われている。江戸時代に書かれた「駿府政事録」などに、[[1613年]]、イギリス国王使節[[ジョン・セーリス]]が駿府城を訪れた際、中国人を使って、家康に花火を見せたという記述が残されている。この時の花火は現在の打ち上げ花火とは異なり、竹筒から火の粉が噴き出す単純なものであった。これを機に家康が三河の砲術隊に命じて、観賞用の花火を作らせるようになったのが、日本における花火の起源とされる<ref>[http://books.google.co.jp/books?id=e818utKhGsQC&pg=PT97 『匠の国日本: 職人は国の宝、国の礎』] 北康利 PHP研究所, 2008</ref>。
 
両国川開きの花火は、[[明治維新]]や[[第二次世界大戦]]などにより数度中断した。[[1961年]]から[[1977年]]まで、交通事情の悪化や、隅田川の水質汚濁による臭害等により中断するが、[[1978年]]に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、以後毎年続けられている。