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===ロマンポルノ時代===
[[1983年]](23歳)、[[ピンク映画]]制作会社・[[にっかつ]]の”ドル箱”として人気があった”SM映画シリーズ”で、"日活SM映画の原作者"として大きな影響力をもっていた[[官能小説]][[作家]]・[[団鬼六]]に見出され、芸名を「高倉美貴」とし、ポルノ映画で[[俳優|女優]]デビューした。高校では映研の部長を務めるなど映画への関心は強かったものの、内容を巡り出演を拒んだ高倉に対して、制作予定の映画の原作者である[[団鬼六]]自ら出演交渉に乗り出し、ポルノ映画出演に反対する40代の母親も同席させて説得にあたった。日活は高倉美貴に対し、新人としては破格のギャラを提示。さらに日活は高倉のロマンポルノ出演にあたり、「3年間で4作品だけに主演」することを契約条件として提示した。これは3代目”[[SMの女王]]”麻吹淳子(日活美人コンテスト第3位)が1年間でロマンポルノSM映画13本に出演したことを考えれば、異例中の異例のことでる。さらに、出演を拒み続ける高倉母子を、団鬼六の友人である”巨匠”、映画監督・[[大島渚]]が説得し、ついに高倉母子が折れてSMポルノでデビューした。
”元祖SMの女王"・[[谷ナオミ]]、2代目SMの女王・[[麻吹淳子]]に続く「[[SMの女王|3代目日活SMの女王]]」とのキャッチフレーズで売り出され、昭和50年代後半には週刊誌、グラビア誌等、多くのメディアで連日のように彼女の写真や映像が取り上げられ、日活ロマンポルノの歴史に名を残す看板女優へと成長した。育ちの良さを漂わす雰囲気、長い黒髪、目鼻立ちのハッキリした日本人離れした容貌と抜群のスタイルから、”和製[[オリヴィア・ハッセー]]”の異名をとると共に、清楚で気品溢れるイメージからは余りにもかけ離れた大胆な演技([[緊縛]]、[[鞭打ち]]、[[ローソク責め]]、[[浣腸]]・[[脱糞]]などのシーン)で話題を呼んだ。