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ルーシ(キエフ・ルーシ等[[ルーシの諸公国]])期からウエズド({{lang-orv|ѹѣꙁдъ}})という用語は用いられていた。法規の中のもっとも古い用例は、1150年に[[スモレンスク公]][[ロスチスラフ1世|ロスチスラフ]]がスモレンスク主教に対して発した勅令書の中に見られる<ref>[http://www.vehi.net/brokgauz/all/111/111966.shtml Церковно-уставные грамоты удельных князей XII века]</ref>。中世においては[[ナメストニク]](クニャージ・ナメストニク)がその管理にあたった。元来、ウエズドはいくつかのヴォロスチ[[:ru:Волость|(ru)]]を総括した行政区画であったが、後にオサードと呼ばれる軍事拠点をも内含するようになった。また、ウエズドの行政中心地の都市(ウエズドヌィー・ゴロドとも。ゴロド[[:ru:Город|(ru)]]ではなくセロ[[:ru:Село|(ru)]]やデレブニャ[[:ru:Деревня|(ru)]]の場合もあった{{refnest|group="注"|「ゴロド(Город)」は城壁などの防衛設備で囲まれた居住地であり、市、都市などど訳される。「セロ(Село)」、「デレブニャ(Деревня)」は村と訳され、教会のあるものをセロ、セロより比較的小さいものをデレブニャと呼んだ<ref>和久利誓一ら編 『岩波ロシア語辞典』 岩波書店、1992年、P1742</ref>。}})では、ウエズド内のヴォロスチからテャグロ[[:ru:Тягло|(ru)]](直接国税の一種<ref>井桁貞義編 『コンサイス露和辞典』 三省堂、2009年、P1149</ref>)が集められた。ヴォロスチはスタン[[:ru:Стан|(ru)]]に、さらにスタンはオコリツァ[[:ru:Околица|(ru)]]に区分された。
 
15世紀後半、ウエズドの概念は、より広大な範囲をさすゼムリャー、オーブラスチとも、狭小な範囲をさすヴォロスチとも混同が始まり、ウエズドの境界線は修正された。16 - 17世紀にはより広大な[[行政単位]]であるラズリャド[[:ru:Разряд (административно-территориальная единица)|(ru)]]が登場し、その管轄下に組み込まれた{{refnest|group="注"|ラズリャドは[[シベリア]]や国境地帯に置かれていた軍事 - 行政単位で、後に中央にも導入された。訳語:管区。<ref>田中陽兒ら編 『世界歴史大系 ロシア史1 - 9~17世紀-』 山川出版社、1995年、P357</ref>。}}。ラズリャドは、中央政府とウエズドとの間を仲介する役割をになった。また、17世紀初頭からウエズドの管理は軍事官の[[ヴォエヴォダ]]が行い、行政・司法をも管轄した<ref>Уезд // Славянская энциклопедия. Киевская Русь — Московия: в 2 т. / Автор-составитель В. В. Богуславский. — Т. 2.—С. 551.</ref>。18世紀初頭には、ラズリャドは[[グベールニヤ]]へと改編された<ref>Богоявленский С. К., Веселовский С. Б. Местное управление // Очерки истории СССР. Период феодализма, XVII в. / Под ред. А. А. Новосельского и Н. В. Устюгова. — М., 1955. — С. 392—394.</ref>。この改編[[:ru:Областная реформа Петра I|(ru)]]は[[ピョートル1世]]によるものであり、規模が無秩序な状態となっていた、[[都市法]]を持つ都市、ウエズド、ラズリャド、かつての[[分領公国|分領地]]などが整理された<ref>[http://www.demoscope.ru/weekly/2003/0101/analit04.php Историческая эволюция административно-территориального и политического деления России]</ref>。
 
==帝政ロシア期==