「六甲山」の版間の差分

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<!--有史から開港--><!--あれば遺跡、須磨の関所、有馬温泉、有馬街道、一の谷の合戦、旗振山と金鳥山の利用、寺社の起源-->
この地帯は古くから「むこ」の名称で呼ばれ、武庫、務古、牟古、六兒、無古などの字が当てられており、『[[日本書紀]]』[[神功皇后]]摂政元年の条には「務古水門(むこのみなと)」の記載がある<ref>[[竹中靖一]]著『六甲』(朋文堂、1933年)</ref>。語源については「[[畿内]]から見て『むこう』を意味する」という説が有力であるが、諸説があるという。六甲山全山はかつて[[廣田神社]]の領地であり<ref>「学生社刊『西宮神社』p53」</ref>、吉田東伍『大日本地名辞書』の「広田神社」の項に、祭神名の撞賢木厳御魂天疎向津比売命と関連して「向津は武庫津というに同じ」とあり、廣田神社祭神向津姫([[瀬織津姫]])との名称の一致がみられる。「六甲」の字が当てられるのは比較的最近で、[[元禄]]時代にできた『[[摂陽群談]]』に見られるのが初期の例であり、[[享保]]年間の『[[摂津志]]』には「武庫山一名六甲山」の記載が見られるという<ref>[http://web.archive.org/web/20071109071452/http://www.kcc.zaq.ne.jp/dfczu104/rokkosan.htm 歴史と伝統の六甲](2007年11月9日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
古くから急峻な地形であることから山岳[[修行]]の山でもあった。[[768年]]([[神護景雲]]2年)には[[和気清麻呂]]によって[[再度山]]山頂近くの南斜面に[[大龍寺 (神戸市)]]が開かれた。[[山号]]は[[空海]]が2度参詣したことに由来するという。
 
[[奈良時代]]には[[律令制]]下で農地増加を図るために[[墾田]]私有を認めたことに始まる[[荘園制度]]が確立され、中央貴族、大寺社、地方の[[富豪]]が山林を開墾して[[荘園]]が拡大し、山麓部の森林は[[カシ]]や[[シイ]]からなる[[常緑樹林]]から[[二次林]]である[[アカマツ]]林や[[コナラ]]林へと推移した。また、周辺の[[寺院]]や[[城砦]]の建設資材を供給するため樹木の伐採や土地の改変、御影石などの[[砕石]]が行われた。
 
[[平安時代]]には末期の[[1180年]]([[治承]]4年)[[平清盛]]の主導で造営が進められた[[福原京]]造営が進められ資材は六甲山から供給された。[[平氏]]が神戸に拠点を置いたことから[[源氏]]との戦い([[治承・寿永の乱]])では[[1184年]]([[寿永]]3年/[[治承]]8年)の[[一ノ谷の戦い]]などの戦いが勃発したため、六甲山の中腹や奥山まで森林が荒廃するようになった。また、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には[[1333年]]([[元弘]]3年)の[[摩耶山合戦]]や[[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年)の[[湊川の戦い]]があった。
[[室町時代]]後期には[[応仁の乱]]にまつわる[[1469年]]([[文明 (日本)|文明]]元年)の兵庫焼き討ちなどで荒廃が進んだ。
 
[[鎌倉時代]]から[[安土桃山時代]]([[戦国時代 (日本)|戦国時代]])には[[1333年]]([[元弘]]3年)[[赤松則村]]により築かれた摩耶山城では[[摩耶山天上寺]]を城郭として修築したほか、[[1334年]](建武年間)再度山上に多々部城(たたべじょう)などの[[山城]]が築かれた。[[1580年]]([[天正]]8年)には[[荒木村重]]が[[花隈城]]に篭って、山路城(諏訪城)の[[池田恒興]]と戦った[[花隈城#花隈城の戦い|花隈城の戦い]]などの争いがあり、これらの戦いと復興のたびに周辺の樹木の伐採などが大規模におこなわれた。さらに、[[1590年]]に[[天下統一]]を成し遂げた[[豊臣秀吉]]政権時は「武庫山の樹木の伐採勝手たるべし」との[[徳政令]]がでたこともあり、六甲山の「[[禿山]]」化がさらに加速した。以降、[[1615年]]([[慶長]]20年)の[[大坂夏の陣]]で焼失した[[大坂城]]を再築した[[徳川幕府]]による大坂城再築事業では、2代[[将軍]][[徳川秀忠]]により[[石垣]]の調達を[[大名]]に命じて[[1620年]]([[元和 (日本)|元和]]6年)から[[1629年]]([[寛永]]6年)までの約10年の歳月をかけ石垣の採掘を行い大坂城へ運びこまれた。なお、各所の[[藩]]の名が彫られた刻印石が残る搬出途中で放棄された巨大な「残念石」が現在でも[[甲山森林公園]]や[[六麓荘町]]など西宮市から神戸市にかけた東西約6km、南北約2kmの山麓周辺に放置されており、これらは「徳川大坂城東六甲砕石場」と呼ばれる。
 
[[江戸時代]]には山麓の人々が山中の谷奥に[[溜池]]を築き、牛の飼料の革や屋根に葺く萱、燃料の薪や土壁などのさまざまな生活物資を求めて奥地にまで及び荒廃はさらに進み、あわせて[[山火事]]も多発することとなって、明治初期には六甲山一帯は禿山で、所々に芝草が生育している程度まで人々の手で荒廃された山であったとされる。<ref>神戸市「六甲山森林整備戦略」六甲山の歴史と現状 P.5-6</ref>
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開発とともに[[はげ山]]化も進み、[[1881年]](明治14年)に神戸を船で訪れた[[牧野富太郎]]が、「六甲山のはげ山を見てびっくりした。はじめは雪が積もっているのかとも思った」<ref>「牧野富太郎選集」1より</ref>という感想を記すほど状況が悪化していた。
 
[[明治政府]]から派遣された巡察使は、六甲山を「土砂が流出し、山は骨と皮だけになっている」と語り、河川の氾濫を防ぐため植林を実施する必要性があることを訴え、[[1895年]](明治28年)の大水害を契機に防災工事が実施されることになり、緑化を目的とした山腹工事が六甲山系東側の逆瀬川上流で開始され砂防堰堤などが建設された。[[1896年]](明治29年)に神戸市でも大水害があり、同年の[[河川法]]、翌年の[[1897年]](明治30年)の[[砂防法]]、[[森林法]]の制定にともない、[[1901年]](明治34年)神戸市でも本格的な六甲山での緑化及び災害対策が開始され植林調査が開始された。[[1902年]](明治35年)から[[1912年]](明治45年)まで年々少量の補植を施して[[1915年]](大正4年)までに神戸市は山地約600ha に合計約334万本の植栽をおこない[[マツ]]、[[ヒノキ]]、[[クヌギ]]、[[スギ]]、[[カシ]]、[[クス]]、[[ヒメヤシャブシ]]、[[ケヤキ]]、[[ポプラ]]、[[ハゼノキ]]、[[クリ]]、[[カエデ]]、[[コブシ]]、[[イチョウ]]など多種多様の樹木の植栽と手入れを継続して行ない、それらは昭和初期の頃まで続いた。<ref>神戸市「六甲山森林整備戦略」六甲山の歴史と現状 P.5-10</ref>
 
=== 大正から戦前 ===
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神戸市では[[1929年]](昭和4年)民間からの鉄道やバスなど各種の開発要請のある中、市の背山一帯を「理想的の大公園と化する」計画をし、道路整備や公園の整備、山上には植物園や高山植物園などの開発計画を練っていた<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00748808&TYPE=HTML_FILE&POS=1 神戸大学新聞記事文庫 市の背山一帯を理想的の大公園と化する]</ref>。
明治から順次緑化整備が進められていた六甲山であるが[[1928年]](昭和3年)の山火事や[[1938年]](昭和13年)の[[阪神大水害]]における各地での甚大な山腹崩壊、さらには[[太平洋戦争]]の激化で再度荒廃の道を歩むことになる。
 
なお、[[1909年]](明治42年)から[[1932年]](昭和7年)にかけては[[大谷光瑞]]が六甲山麓の通称「岡本山」に建設した別邸である[[二楽荘]]があり、各施設内をつなぐための3本のケーブルカーまで設置された壮大かつ華麗な邸宅が存在していた。
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=== 毎日登山 ===
神戸市近郊の山々では近隣住民による「毎日登山」が大変盛んであり、山上の茶屋などに登山の履歴を記帳する[[ノート]]が設置されている山も珍しくない。高取山の毎日登山が有名である。再度山では[[1905年]]([[明治38年]])38年)頃から山歩きを楽しむ居留外国人達が「善助茶屋」にサインする習慣が根づき、これが広く定着したものとされる。毎日の登山回数を競い合うもので、現在でも続いており善助茶屋跡には「毎日登山発祥の地」の石碑が[[1978年]]([[昭和53年]])53年)に建てられた。当初は「毎朝登山」と呼ばれ大正時代には400以上の登山団体があったとされる。[[2006年]]に開催された[[第61回国民体育大会|のじぎく兵庫国体]]の縦走競技でも、神戸市立布引中学校([[新神戸駅]]付近)からスタートして北向きに登り途中から全山縦走路に合流、摩耶山山頂のゴールに至るコースが採用された。神戸市では「神戸市民山の会 毎日登山累年成績表彰式」を恒例で行っており、11の山筋で季節を問わず年中無休で毎日登山をしている市民に対して表彰をおこなっており、これまでに22,000回登山(平成25年度)を超えている強者もおりその回数が突出している毎日登山愛好家もいる。
 
=== その他登山道 ===
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* [[神戸市営地下鉄西神・山手線]] - [[北神急行電鉄北神線|北神急行]]
* [[JR神戸線]] - [[福知山線]]
* [[阪急神戸本線]] - [[阪急今津線|今津線]] - [[阪急甲陽線|甲陽線]]
* [[神戸電鉄有馬線]]
* [[六甲山観光六甲ケーブル線|六甲ケーブル]] - [[六甲有馬ロープウェー]]