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[[八幡奈多宮]]の大宮司・奈多鑑基の娘として誕生。
 
[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]])- 天文20年([[1551年]])頃、大友義鎮に嫁いだ。奈多夫人は一度夫と死別しており、この結婚は娘([[志賀親次]]母)を連れての再婚であり、義鎮より年上だったという。[[永禄]]元年([[1558年]])には義統を、永禄4年([[1561年]])には親家を、永禄10年([[1567年]])には親盛を産んだ。他にも4人の娘を産んだという。しかし、義鎮は7人の側室を持ち、家臣の美人の妻を奪って自分の側室にするなど好色であったため、夫の浮気の虫を鎮めるため国中の僧侶や山伏らに調伏をさせたという。また、義鎮が[[キリスト教]]に傾倒するようになってからは、八幡奈多宮の娘であり[[神道]]を信じる奈多夫人と義鎮は信仰を巡って度々争うようになったという。
 
永禄7年([[1564年]])には、奈多夫人の産んだ娘の1人と[[毛利元就]]の8男の[[末次元康]]が婚約を預定したが、間もなく破談した。天正3年([[1575年]])11月、息子の親家がキリスト教に入信し、これにより下層階級が中心だったキリスト教は大友家中にも広まっていた。一方、奈多夫人は、久我中納言に嫁いでいた娘に仕えるエステバンというキリシタン少年が、仏寺から護符をもらってくるようにという奈多夫人の娘の言いつけを拒否したことに怒り、棄教しなければ死罪にすると申し渡したが、彼が棄教を拒んだため、家督を継いでいた長男の義統に命令し、エステバンを殺させようとした。しかし、これを知った義鎮が間に入り、事なきを得た。このエステバン事件のこともあり、キリスト教が大友家家臣にまで広がってきていることを重く見た奈多夫人は、親家に棄教を迫るようになった。[[宣教師]]達は、ことごとくキリスト教に敵対的な態度をとる奈多夫人を「イゼベル」と呼ぶようになったという([[イゼベル]]とは、[[イスラエル]]国王の[[アハブ]]の妃で異教を崇め、預言者[[エリヤ]]を追放した女性)。