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== 経歴 ==
[[実業学校|商業学校]](第二次大戦後の[[商業高等学校]]に相当)を中退して、運動具店の店員になった後に棋士を目指した<ref name=":3" />。1936年(昭和11年)に奨励会に入会する際には、師匠の平野信助七段から、丸田の棋力なら2級か3級でも入会できるが、6級なら無試験で済む、と言われ、6級で入会した<ref name="戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段(『NHK将棋講座』2013年8月号より)">{{Cite web|url=http://textview.jp/post/hobby/8060|title=戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段(『NHK将棋講座』2013年8月号より)|accessdate=2017-08-06|author=|date=2013-08-15|publisher=[[NHK]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170806045722/http://textview.jp/post/hobby/8060|archivedate=2017-08-06}}</ref>。
* 母親の[[出産|里帰り出産]]により[[長野県]][[長野市]]で出生し<ref name=kawa2>{{Cite book |和書 |author=河口俊彦 |year=2013 |title=最後の握手 |publisher=株式会社マイナビ |page=221 |isbn=978-4-8399-4999 }}</ref>し、[[東京市]](現・[[東京都]])浅草で育つ。[[保善高等学校|東京保善商業学校]](現[[保善高等学校]])中退。
 
* 昭和11年に[[平野信助]]七段に弟子入りした<ref name=kawa2></ref>。[[奨励会]]時代の昭和15年、三段の時に[[太平洋戦争]]に召集され<ref name=maruta2>{{Cite web |author= |date=2013-08-15 |url=http://textview.jp/post/hobby/8060 |title=戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段 |publisher=NHK |accessdate=2017-06-26}}</ref>、[[陸軍]]の[[衛生兵]]として[[ヤップ島]]で終戦を迎えた。最後の戦中派棋士である。
奨励会三段だった1940年(昭和15年)に<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その1" />、陸軍に入営した<ref>{{Harvnb|加藤|1987|pp=66-69|loc=「丸田祐三・三段=18年8月25日。」として、陸軍伍長の階級章をつけた写真が掲載されている。}}</ref>。6年あまりの軍隊生活を終えて1946年(昭和21年)に復員した<ref name="戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段(『NHK将棋講座』2013年8月号より)" />。東京・浅草にあった家は空襲で焼失しており<ref name="戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段(『NHK将棋講座』2013年8月号より)" />、両親は戦災死<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その1">{{Harvnb|河口|2013|pp=56-63|loc=三段跳びの天才-丸田祐三その1}}
* 復員後は特例で四段に昇段し、順位戦を12勝2敗の成績を収め、当時の勝ち星点数加算制度により三段跳びの七段に昇段。さらに翌年も昇段を決め、戦後の混乱期とはいえ、四段から二年で八段というスピード昇段記録を持っている<ref name=maruta2></ref>。
</ref>、兄は戦死していた<ref name="三段跳びの天才-丸田祐三その1" />。
*[[1961年]]の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]などタイトル戦登場4回、棋戦優勝10回、A級は通算24年<ref name="maruta3">{{Cite web|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/43.html|title=棋士データベース 九段 丸田祐三|accessdate=2017-06-26|publisher=日本将棋連盟}}</ref>。
 
* 勝ち抜き戦の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]では1959年、1965年、1968年の合計3回優勝している<ref>{{Cite web |date=2015-02-18 |url=https://www.shogi.or.jp/match/nhk/ |title=NHK杯将棋トーナメント |publisher=日本将棋連盟 |accessdate=2017-06-26}}</ref>。
四段となって第1期順位戦(1946年5月 - 12月)にB級の最下位で参加し、12勝2敗の好成績を挙げた。1947年5月10日に、将棋大成会(日本将棋連盟の前身)の規定変更により、B級の16人を全員七段とすることが決まり、四段から七段に飛びつき昇段した。これは「丸田の三段跳び」として知られる。<ref name="第4章-棋界の復興-概説">{{Harvnb|加藤|1987|pp=78-79|loc=第4章-棋界の復興-概説(筆者:山口恭徳)}}</ref>翌年度の第2期順位戦でA級への昇級を決め<ref name=":3">{{Harvnb|加藤|1987|pp=146-147|loc=アサヒグラフの記事(昭和27年9月10日号)}}</ref>、2年間で四段(プロ棋士の最低段位)から八段(1948年当時のプロ棋士の最高段位)に昇った<ref name="戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段(『NHK将棋講座』2013年8月号より)" />。
* [[2015年]]2月17日夜、多臓器不全による肺炎のため死去。満95歳没<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH2K5TYTH2KUCLV011.html?iref=comtop_6_06 棋士の丸田祐三さん死去 77歳まで現役最年長記録(後に[[加藤一二三]]が更新)] 朝日新聞デジタル(2015年2月18日)2015年2月18日閲覧</ref><ref>[http://mainichi.jp/feature/news/20150218k0000m040168000c.html 訃報:丸田祐三さん死去95歳=元日本将棋連盟会長、九段] 毎日新聞(2015年2月18日)2015年2月18日閲覧</ref>。これにより、大正生まれの将棋棋士は全員物故者となった。
 
*[[1961年]]の[[名人戦 (将棋)|名人戦]]などタイトル戦登場4回、棋戦優勝10回、A級は通算24年<ref name="maruta3">{{Cite web|url=https://www.shogi.or.jp/player/pro/43.html|title=棋士データベース 九段 丸田祐三|accessdate=2017-06-26|publisher=日本将棋連盟}}</ref>。
 
* 勝ち抜き戦の[[NHK杯テレビ将棋トーナメント]]では1959年、1965年、1968年の合計3回優勝している<ref>{{Cite web |date=2015-02-18 |url=https://www.shogi.or.jp/match/nhk/ |title=NHK杯将棋トーナメント |publisher=日本将棋連盟 |accessdate=2017-06-26}}</ref>。
 
* [[2015年]]2月17日夜、多臓器不全による肺炎のため死去。満95歳、{{年齢|1919|3|30|2015|2|17}}<ref>[http://www.asahi.com/articles/ASH2K5TYTH2KUCLV011.html?iref=comtop_6_06 棋士の丸田祐三さん死去 77歳まで現役最年長記録(後に][[加藤一二三]]が更新)] 朝日新聞デジタル(2015年2月18日)2015年2月18日閲覧</ref><ref>[http://mainichi.jp/feature/news/20150218k0000m040168000c.html 訃報:丸田祐三さん死去95歳=元日本将棋連盟会長、九段] 毎日新聞(2015年2月18日)2015年2月18日閲覧</ref>。これにより、大正生まれの将棋棋士は全員物故者となった。
 
== 記録 ==
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* [[ひねり飛車]]を得意戦法としていた。「丸田新手9七角」は丸田流ひねり飛車とよばれる<ref name=maruta1></ref>。[[将棋世界]]2007年9月号の企画、「現役棋士が選ぶ衝撃の新手・新戦法ベスト10」において第10位に選ばれた(昭和に生まれた戦法の中で唯一のランクイン)<ref>{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title =特集『新手魂』 |date =|publisher =日本将棋連盟 |journal =将棋世界 |volume =2007年9月号 |issue = |naid = |pages = |ref = }}</ref>。現代ではプロの実戦の中ではあまり指されなくなったが、将棋の[[定跡]]書には今なお必ず掲載されている。
* [[加藤一二三]]は、丸田は棋理に明るく、作戦巧者だと評している<ref name=maruta4></ref>。また、早投げの棋風であったと評している<ref name=kato1>{{Cite book |和書 |last= |first= |author=将棋世界編集部 |year=2013 |title=将棋世界Special.vol4「加藤一二三」 ~ようこそ! ひふみんワールドへ~ |publisher=マイナビ |page=87 |isbn=4839949492 }}</ref>。
* 早投げの棋風で知られた丸田であったが、ここ一番の勝負では、一転して粘り強さを発揮した<ref name="kawa2">{{Cite book|和書 |author=河口俊彦|title=最後の握手|year=2013|publisher=株式会社マイナビ|isbn=978-4-8399-4999|page=221}}</ref>。
* [[先崎学]]は、丸田は中盤戦における発想が柔軟で、駒がぶつかった瞬間にさっと身を翻すような手を指す、と評している<ref>{{Cite journal |和書|author = |authorlink = |title =|date =|publisher =日本将棋連盟 |journal =将棋世界 |volume = |issue =1996年6月号 |ASIN=|naid = |pages = |ref = }}</ref>。
* [[1961年]](昭和36年)度の名人戦(大山康晴名人に挑戦して1勝4敗で敗退)の第4局(丸田が勝利)について、記録係を務めた[[河口俊彦]]は、序盤・中盤・終盤と完璧な指し回しであり、丸田の強さに瞠目した、と評している<ref>{{Harvnb|河口|2003|loc=|pp=101-102}}</ref>。
 
== 将棋連盟理事 ==
* 日本将棋連盟の理事を長年務め、[[王座戦た<ref (将棋)]]・[[王座name=":1" />。会長を1969年から1973年まで4年(囲碁一期)|王座戦(囲碁)]]の創設に尽力し務めた<ref>{{Cite web|url=http://stylewww.nikkeisankei.com/articlewest/DGXMZO83355680Y5A210C1000000news/150218/wst1502180024-n1.html|title=追悼・元日本将棋連盟会長の丸田祐三九段 王座戦半世紀共に歩む氏が死去|accessdate=2017-06-26|author=|date=20022015-0902-1318|publisher=日本新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170707063048/http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|archivedate=2017-07-07}}</ref>。
* 日本将棋連盟会長を1969年から1973年まで4年(一期)務めた<ref>{{Cite web |author= |date=2015-02-18 |url=http://www.sankei.com/west/news/150218/wst1502180024-n1.html |title=元日本将棋連盟会長の丸田祐三氏が死去 |publisher=産経新聞 |accessdate=2017-06-26}}</ref>。
* 1951年(昭和26年)度の第1期王将戦第5局で[[陣屋事件]]が発生した際、日本将棋連盟の理事であった丸田は、対局の立会人でもあった<ref>{{Harvnb|加藤|1987|p=108|pp=|loc=「陣屋事件」を報じた毎日新聞(王将戦主催社)の記事(1952年2月18日夕刊)}}</ref><ref name="=「陣屋事件」の真相‐ 積もった不満が爆発">{{Harvnb|升田|2003|p=|pp=288‐290|loc=「陣屋事件」の真相‐積もった不満が爆発}}</ref>。{{See|陣屋事件}}
* [[王座戦 (将棋)]]・[[王座 (囲碁)|王座戦(囲碁)]]の創設に尽力した<ref name=":1">{{Cite web|url=http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|title=追悼・丸田祐三九段 王座戦半世紀共に歩む|accessdate=2017-06-26|author=|date=2002-09-13|publisher=日本経済新聞社|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170707063048/http://style.nikkei.com/article/DGXMZO83355680Y5A210C1000000|archivedate=2017-07-07}}</ref>。
* 連盟の運営に長く携わった丸田であるが、酒を一切飲まず、宴席を好まなかった<ref name=":2">{{Cite journal ja-jp|author=[[前田祐司]]|year=|title=言い訳をしたい棋譜|journal= 将棋世界|serial=2016年11月号|publisher=日本将棋連盟|naid=|pages=160-161}}</ref>。
* 加藤一二三は、理事・会長としての丸田は公平無私の人柄で大きな支持を得ていた、と評している<ref name=maruta4>{{Cite web |author=加藤一二三 |date=2014-09-08 |url=http://www.47news.jp/smp/feature/hifumin/2014/09/post_20140904194805.html |title=丸田祐三九段との思い出 |work= |publisher=47News |accessdate=2017-06-27}}</ref>。
*事務処理能力が高く、棋士の報酬(給与、対局料など)体系を作り、また順位戦制度の整備をして現在の形にしたとされる。順位戦の所属リーグと連動して基本給が決まり、段位・タイトル・年功などの実績による上乗せ、休場や成績不振による報酬減少の緩和などを加味して実際の報酬額が決まった。報酬体系は非常に複雑で、完全に理解していた者は丸田の他に一人しかいなかったという<ref>{{cite web|url=http://www.nikkei.com/article/DGXKZO83445950Q5A220C1MM8000/|title=春秋 2015年2月20日付|accessdate=2017-04-24|date=2015-07-20|publisher=[[日本経済新聞]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150221002120/http://www.nikkei.com/article/DGXKZO83445950Q5A220C1MM8000/|archivedate=2016-02-21}}</ref>。
* 河口俊彦は、丸田が官庁に入っていれば、必ずや幹部に昇進しただろう、と評している<ref>{{Harvnb|河口|2003|loc=|p=110}}</ref>。
* 口の堅さに定評があり、棋士からの信頼が厚かったという<ref name=kawa2></ref>。
 
== 人物 ==
* 弟子に[[松浦隆一]]七段、[[武市三郎]]六段がいる
* [[1981年]]に[[褒章|藍綬褒章]]、1995年に[[旭日章|勲四等旭日小綬章]]<ref name=maruta3></ref>。
* [[1995年]]度に第23回将棋大賞を受賞した<ref name=maruta3></ref>。
* 弟子に[[松浦隆一]]七段、[[武市三郎]]六段。
* 現役後期はC級2組まで落ちたが将棋への情熱は健在で、しばしば深夜まで奮闘する姿が見られたという。
* [[大山康晴]]と親しかった<ref name=kato1 />。丸田-大山の対戦成績は丸田側から見て25勝45敗1[[持将棋]]、対大山戦の勝率では[[二上達也]]や[[内藤國雄]]を上回っている。
*出身地である[[長野市]]の[[ながの東急百貨店]]で長年にわたって開かれていた「ながの東急将棋まつり」の運営を取り仕切っていた。1978年に出演した前田祐司によると、「ながの東急将棋まつり」は、数ある将棋まつりの中でも別格の存在(出演棋士が人気棋士に限られ、出演料が高い)であったという。<ref name=":2" />
*酒は苦手な下戸だった<ref>{{Cite journal |和書|author =前田祐司 |authorlink = |title =言い訳をしたい棋譜 |date =2016-11 |publisher = |journal =将棋世界 |volume = |issue = |naid = |pages =161 |ref = }}『将棋世界』2016年11月号 P.161 前田祐司「言い訳をしたい棋譜」</ref>。なお親友の大山も下戸。
* [[将棋界]]のイベントのプロデュースやタイトル戦の[[立会人]]などを務めた。
* 浅草育ちのため「おっ、うまいこと言うねえ」、「と、こうきたね」など、粋な江戸っ子言葉を話した。
* 抜群の記憶力の持ち主で、[[棋譜]]を覚える他にも、[[麻雀]]の牌を裏の模様で半分以上覚えたという逸話があるが、本人によると一半荘で覚えられるのは十枚程度であり、またそれは当時の竹牌が粗悪だったからだとのことである<ref>{{Harvnb|先崎|2003|loc=将棋指しの麻雀|pp=133-135}}</ref>。
* 写真家・[[丸田祥三]]の父。丸田に息子祥三の話をすると、常に上機嫌がよかになったという。<ref name=kawa2><"三段跳びの天才-丸田祐三その1" /ref>
* 1983年第14期[[麻雀名人戦]](掲載誌『[[週刊大衆]]』)でベスト8に進出した。
* 写真家・[[丸田祥三]]の父。丸田に息子の話をすると機嫌がよかった<ref name=kawa2></ref>。
 
== 昇段履歴 ==
*[[1936年]] 6級
*[[1946年]] 四段 = プロ入り
*[[1947年]] 七段へ跳び昇段([[順位戦]]で、当時将棋大成会B級へ昇級規定変更による
*[[1948年]] 八段(順位戦A級昇級)
*[[1973年]] 九段(九段昇格規定30点)
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* {{Citation |和書 |last=加藤 |first=治郎 監修 |authorlink=加藤治郎 |year=1987 |title=[写真で見る]将棋昭和史 |edition= |publisher=毎日コミュニケーションズ}}
* {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink=河口俊彦 |year=2003 |title=大山康晴の晩節 |volume= |publisher=飛鳥新社}}
* {{Citation |和書 |last=河口 |first=俊彦 |authorlink=河口俊彦 |year=2013 |title=最後の握手 昭和を創った15人のプロ棋士 |volume= |publisher=マイナビ}}
* {{Citation |和書 |last=先崎 |first=学 |authorlink=先崎学 |year=2003 |title=まわり将棋は技術だ - 先崎学の浮いたり沈んだり 2 |volume= |publisher=文藝春秋}}
* {{Citation |和書 |last=升田 |first=幸三 |authorlink=升田幸三 |year=2003 |title=名人に香車を引いた男 升田幸三自伝 |edition= |publisher=中央公論新社(中公文庫)}}