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頭蓋骨抉る (会話 | 投稿記録)
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== 来歴 ==
岡山県立琴浦高等学校([[岡山県立倉敷鷲羽高等学校]])を中退して、兄(後の[[十両]]・[[常の山日出男|常の山]])が所属していた出羽海部屋から[[1967年]]([[昭和]]42年)33月場所で[[初土俵]]を踏んだ。初土俵の際に同姓の力士が既に在籍しており四股名選びに困っていたところ、入門前に[[常ノ山勝正|常ノ山]]が切り盛りしていた料理店で本人と面識を持った縁で常ノ山の若名乗りである'''鷲羽山'''を与えられ、以後引退まで鷲羽山で通す。因みに四股名の由来である[[鷲羽山]]は彼の実家のすぐそばにあり、本人曰く「あまりに平凡で嫌だった。知り合いから電話があっても近所の山の方と混同されそうで恥ずかしかった」といい、私生活で恥じることなくこの四股名を名乗ることができるようになるまで襲名以降1年から2年を要したという。<ref>『相撲』2014年3月号72頁</ref>身長173cmという入門規定ぎりぎりで合格し、小さい体で活躍した。[[1972年]](昭和47年)77月場所で十両に昇進、その場所は全休するも[[公傷制度]]に助けられて[[番付]]は落ちなかった。それがその後の昇進に大きく影響したので、公傷によって救われたケースといえよう。その当時は『ちびっ子ギャング』<ref name="washuyama"/><ref>[http://www.jiji.com/jc/v2?id=2016sumo_imyo_19 角界「異名」列伝 ウルフの時代] 時事ドットコム</ref>の異名を取り、[[旭國斗雄|旭國]]、[[北瀬海弘光|北瀬海]]らとともに小兵旋風を吹かせ技能派力士として人気を博した。
 
新入幕を果たした[[1973年]](昭和48年)55月場所では、初日から8連勝するとともに[[大関]]・[[清國勝雄|清國]]を破る殊勲の星を挙げる<ref>清國の攻めに土俵際に詰まったが、清國の突き手を手繰って後ろへ回ると送り出して勝利。
:『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p49</ref>など11勝4敗と大勝ちし、この好成績で[[三賞#敢闘賞|敢闘賞]]を受賞した<ref name="washuyama"/><ref name="washu">『大相撲ジャーナル』2017年6月号109頁</ref>。[[1977年]](昭和52年)77月場所では、殊勲・敢闘賞が該当なく、技能賞の彼だけが[[三賞]]受賞者となるという珍しい状態になったこともあった。[[北の湖敏満|北の湖]]をして、「あの人は僕とは相撲の見方が違う」と言わしめた力士だった。小柄ながら正攻法の相撲で、突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く[[土俵]]を沸かせた<ref name="washuyama">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p27</ref><ref name="washu"/>
 
小柄ながら正攻法の相撲で、突っ張りや押し、いなしと言った多彩な技で長く[[土俵]]を沸かせた<ref name="washuyama">『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p27</ref><ref name="washu"/>。[[北の湖敏満|北の湖]]には[[1975年]]11月場所8日目に金星を獲得、また新[[小結]]だった[[1976年]]3月場所4日目にも勝利している。この大横綱をして、「あの人は僕とは相撲の見方が違う」と言わしめた力士だった。ただし[[輪島大士|輪島]]に対しては極端に成績が悪く、初顔から18度戦って終に、一度も勝てずに終わった。
 
小兵力士ながら36歳まで現役を務めており、大型力士が輩出した時代の中では特筆される。現役時代晩年には幕内と十両を往復していたが、その当時に[[黒船]]と称されるほどの快進撃を続けていた[[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]を破り、話題になった。また、[[相撲茶屋]]「伊勢福」の女将(元[[小結]]・[[大起男右エ門|大起]]の未亡人)の養子となって、鈴木姓から石田姓に改めた。
現役時代から語彙が多く表現力が長けており、「[[高見山大五郎|高見山]]に振られた時は[[宇宙遊泳]]してるようだった」などの名言を残している。[[土俵入り]]では、[[はらたいら]]が描いた「モンローちゃん」の化粧廻しを使用したこともある<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1812965.html 千代大龍は「キン肉マン」/主な漫画化粧まわしメモ] 日刊スポーツ 2017年4月25日9時50分 紙面から</ref>。また新年の恒例[[番組]]だった『大相撲部屋別対抗歌合戦』([[フジテレビ]])では親方時代に至るまで自らセンターに立つなど、意欲的に参加していた。現役時代、カラオケでは演歌、懐メロで右に出る者はいないという歌唱力を誇ったが、現役当時の座談会では「五木ひろしの歌オンリー」と言っていた<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p56</ref>。
[[1985年]](昭和60年)1111月場所後に現役を引退して年寄・[[境川 (相撲)|境川]]を襲名し、以後は出羽海部屋付きの親方として、後進の指導に当たった。
 
[[1996年]]([[平成]]8年)22月には、出羽海[[理事長]]([[横綱]]・[[佐田の山晋松|佐田の山]])が理事長職に専念するため出羽海部屋の経営から離れることになったことを受けて、出羽海と境川の年寄名跡を交換して10代出羽海を襲名するとともに伝統ある出羽海部屋を継承した<ref name="washuyama"/>。[[2002年]](平成14年)には、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽海一門]]を代表して[[日本相撲協会]]理事に就任した。
小兵力士ながら36歳まで現役を務めており、大型力士が輩出した時代の中では特筆される。現役時代晩年には幕内と十両を往復していたが、その当時に[[黒船]]と称されるほどの快進撃を続けていた[[小錦八十吉 (6代)|小錦八十吉]]を破り、話題になった。また、[[相撲茶屋]]「伊勢福」の女将(元[[小結]]・[[大起男右エ門|大起]]の未亡人)の養子となって、鈴木姓から石田姓に改めた。
 
直弟子からは、[[小結]]・[[普天王水|普天王]]、十両・[[出羽鳳太一|出羽鳳]]、[[出羽平真一|出羽平]]などの関取を育てている。
1981年3月場所6日目に行われた座談会では9代出羽海の喜ぶ顔を見るために相撲を取っていることなどを明かした<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p57</ref>。
 
[[2010年]][[3月31日]]に大関・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]の[[昇進伝達式]]で使者を務めた際には、私服姿で夜の繁華街を闊歩したことなどで過去に2度の厳重注意を受けた例を引き合いにして「相撲も大事だけど、私生活もな。これからは、横綱みたいに注目されるのだから」と把瑠都に苦言を呈する異例の様子を見せた。同年1月場所直後に横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]が一般人への暴力行為を働いた不祥事を受けて引責引退したばかりであっただけにこの時期には外国人力士の品格が厳しく問われていた。出羽海はその日、伝達式から引き揚げる際にも「上を目指して努力してほしいが、私生活でも気を引き締めてもらわないといけない」と改めて訴えた。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2010sumounatsu/KFullNormal20100401142.html ノーモア朝青龍!大関・把瑠都に使者“物言い”] Sponichi Annex 2010年04月01日</ref>
[[1985年]](昭和60年)11月場所後に現役を引退して年寄・[[境川 (相撲)|境川]]を襲名し、以後は出羽海部屋付きの親方として、後進の指導に当たった。
 
[[2010年]]に発覚した[[大相撲野球賭博問題]]では執行部(事業部長)として、また弟子の野球賭博関与の監督責任で、名古屋場所謹慎の処分となる<ref>2010年 7月5日朝日新聞</ref>。場所中に入院した[[三重ノ海剛司|武蔵川理事長]]から場所後の理事長代行の指名を受けていたが、賭博問題を受けて発足した特別調査委員会の山口弘典の暴力団への維持員席のチケットが渡ったとされる問題で、山口の委員就任前に報告を受けながら黙認したことが問題となり、代行は場所中に努めた外部理事の[[村山弘義]]がそのまま務めることになった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2010sumounagoya/KFullNormal20100724152.html 維持員席問題で辞任拒否…山口特別調査委員を解任 スポニチアネックス 2010年7月24日閲覧]</ref>。
[[1996年]]([[平成]]8年)2月には、出羽海[[理事長]]([[横綱]]・[[佐田の山晋松|佐田の山]])が理事長職に専念するため出羽海部屋の経営から離れることになったことを受けて、出羽海と境川の年寄名跡を交換して10代出羽海を襲名するとともに伝統ある出羽海部屋を継承した<ref name="washuyama"/>。[[2002年]](平成14年)には、[[一門 (相撲)#出羽海一門|出羽海一門]]を代表して[[日本相撲協会]]理事に就任した。
 
直弟子からは、[[小結]]・[[普天王水|普天王]]、十両・[[出羽鳳太一|出羽鳳]]、[[出羽平真一|出羽平]]などの関取を育てている。
 
2010年3月31日に大関・[[把瑠都凱斗|把瑠都]]の[[昇進伝達式]]で使者を務めた際には、私服姿で夜の繁華街を闊歩したことなどで過去に2度の厳重注意を受けた例を引き合いにして「相撲も大事だけど、私生活もな。これからは、横綱みたいに注目されるのだから」と把瑠都に苦言を呈する異例の様子を見せた。同年1月場所直後に横綱・[[朝青龍明徳|朝青龍]]が一般人への暴力行為を働いた不祥事を受けて引責引退したばかりであっただけにこの時期には外国人力士の品格が厳しく問われていた。出羽海はその日、伝達式から引き揚げる際にも「上を目指して努力してほしいが、私生活でも気を引き締めてもらわないといけない」と改めて訴えた。<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2010sumounatsu/KFullNormal20100401142.html ノーモア朝青龍!大関・把瑠都に使者“物言い”] Sponichi Annex 2010年04月01日</ref>
 
[[2010年]]に発覚した[[大相撲野球賭博問題]]では執行部(事業部長)として、また弟子の野球賭博関与の監督責任で、名古屋場所謹慎の処分となる<ref>2010年 7月5日朝日新聞</ref>。場所中に入院した[[三重ノ海剛司|武蔵川理事長]]から場所後の理事長代行の指名を受けていたが、賭博問題を受けて発足した特別調査委員会の山口弘典の暴力団への維持員席のチケットが渡ったとされる問題で、山口の委員就任前に報告を受けながら黙認したことが問題となり、代行は場所中に努めた外部理事の[[村山弘義]]がそのまま務めることになった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/sports/special/2010sumounagoya/KFullNormal20100724152.html 維持員席問題で辞任拒否…山口特別調査委員を解任 スポニチアネックス 2010年7月24日閲覧]</ref>。
 
[[2014年]]4月に停年(定年)を迎えることに伴い、同年1月場所後に元前頭2・[[小城ノ花昭和|小城ノ花]]の高崎親方と名跡を交換し出羽海部屋を継承させ、自身は15代・高崎を襲名した後、予定通り同年4月1日付で日本相撲協会を停年退職した。
 
停年退職後の[[2016年]][[12月20日]]、第49回日本プロスポーツ大賞授賞式で、スポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受賞した<ref name="Hochi">[http://www.hochi.co.jp/sports/sumo/20161220-OHT1T50208.html 元関脇・鷲羽山の石田佳員氏、日本プロスポーツ大賞スポーツ功労者文部科学大臣顕彰を受賞] 2016年12月20日20時13分 スポーツ報知</ref>。
 
== 人物 ==
現役の幕内力士である[[石浦将勝]]([[宮城野部屋]])が「自分が尊敬し、目標とする力士」として鷲羽山の名を挙げている<ref name="Hochi"/><ref>{{Cite news|title=石浦 鳥取から53年ぶり関取、白鵬の内弟子 目標は鷲羽山|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2015-01-29|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/01/29/kiji/K20150129009710960.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-2-27}}</ref>。
*四股名の由来である[[鷲羽山]]は実家のすぐそばにあり、本人曰く「あまりに平凡で嫌だった。知り合いから電話があっても近所の山の方と混同されそうで恥ずかしかった」といい、私生活で恥じることなくこの四股名を名乗ることができるようになるまで襲名以降1年から2年を要したという<ref>『相撲』2014年3月号72頁</ref>。
*現役時代から語彙が多く表現力が長けており、「[[高見山大五郎|高見山]]に振られた時は[[宇宙遊泳]]してるようだった」などの名言を残している。[[土俵入り]]では、[[はらたいら]]が描いた「モンローちゃん」の化粧廻しを使用したこともある<ref>[http://www.nikkansports.com/battle/sumo/news/1812965.html 千代大龍は「キン肉マン」/主な漫画化粧まわしメモ] 日刊スポーツ 2017年4月25日9時50分 紙面から</ref>。また新年の恒例[[番組]]だった『大相撲部屋別対抗歌合戦』([[フジテレビ]])では親方時代に至るまで自らセンターに立つなど、意欲的に参加していた。現役時代、カラオケでは演歌、懐メロで右に出る者はいないという歌唱力を誇ったが、現役当時の座談会では「五木ひろしの歌オンリー」と言っていた<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p56</ref>。
*[[相撲茶屋]]「伊勢福」の女将(元小結・[[大起男右エ門|大起]]の未亡人)の養子となって、鈴木姓から石田姓に改めた。
*[[1981年]]3月場所6日目に行われた座談会では9代出羽海の喜ぶ顔を見るために相撲を取っていることなどを明かした<ref>『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p57</ref>。
*現役の幕内力士である[[石浦将勝]]([[宮城野部屋]])が「自分が尊敬し、目標とする力士」として鷲羽山の名を挙げている<ref name="Hochi"/><ref>{{Cite news|title=石浦 鳥取から53年ぶり関取、白鵬の内弟子 目標は鷲羽山|newspaper=Sponichi ANNEX|date=2015-01-29|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2015/01/29/kiji/K20150129009710960.html|agency=スポーツニッポン新聞社|accessdate=2017-2-27}}</ref>。
 
== 主な成績・記録 ==