「成瀬正一 (フランス文学者)」の版間の差分
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[[File:Naruse seiichi.jpg|thumb|250px|right|成瀬正一]]
'''成瀬 正一'''(なるせ せいいち、[[1892年]][[4月26日]] - [[1936年]][[4月13日]])は、日本の[[フランス文学者]]である。[[ロマン・ロラン]]の翻訳・紹介をおこなった。大学卒業後まもなく創作から研究の道に転じ、九州帝国大学法文学部教授として仏蘭西浪漫主義思想を専門としたが、43歳で病死した。パリ留学中の1921年、[[松方幸次郎]]のアドバイザーとして[[松方コレクション]](国立西洋美術館)の絵画彫刻の蒐集購入に協力した。
==生誕から大学卒業まで(1892~1916)==
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麻布中学校、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[東京大学|東京帝国大学]]英文科
学生時代からロマン・ロランと文通し、ロランに会った最初の日本人である(1918年7月)。第一次世界大戦中スイスに亡命中のロランとの3週間にわたる率直な心の交流については、ロラン著「戦時の日記」(『ロマン・ロラン全集』みすず書房)に詳しく書かれている。▼
==米国留学と欧州での経験(1916~1918)==
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==パリでの生活(1921~1925)==
松方幸次郎のパリのベルネーム・ジューヌやディラン・リュエル等画商めぐりに屡々同行し、特にクールベとギュスターブ・モローの作品購入を勧めた。パリ郊外ジベルニーのモネ邸には、妻の福子、松方幸次郎、黒木三次・竹子(松方の姪)夫妻、[[坂崎坦]](美術史家)などを伴って80歳を超えたクロード・モネを訪れ、モネの長男の妻ブランシュ・オシュデや次男ミッシェルとも親交が深かった。1923年には、[[ジョルジュ・クレマンソー]]と共にヌイイの病院に白内障の手術のため入院していたモネを見舞っている[[File:Claude Monet and Fukuko Naruse.jpg|thumb|right|300px|1921年 ジベルニーにて成瀬正一撮影。向かって左からミッシェル・モネ、クロード・モネ、成瀬福子、ブランシュ・オシュデ・モネ]]。
==九州大学教授時代(1925~1936)==
==三度目のパリ滞在(1935)==
==著作==
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*『仏蘭西文学研究』第1輯、白水社、1938年5月 故成瀬正一教授記念事業委員会編
*『仏蘭西文学研究』第2輯、白水社、1939年10月 故成瀬正一教授記念事業委員会編
==家族==
妻: 成瀬福子(旧姓 川崎)は、[[川崎正蔵]]の孫で、川崎芳太郎([[川崎造船所]]副社長)の長女。
子供: 成瀬不二雄(二男)は、江戸時代の洋風画研究者で[[大和文華館]]副館長)。
村上光子(長女)は俳人で[[馬酔木]]同人。
弟: [[成瀬正二]]は、軍人で航空魚雷の開発者。
==参考文献==
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*[[坂崎坦]]「アイ・ライク・ユー 49年前のモネ先生訪問記」『フランス印象派百年記念 モネ名作展』朝日新聞社、1970年
*[[池上忠治]] 「モネと日本」『印象派100年 光と色彩の交響 モネ展』、読売新聞社、1973年
* 石岡久子、翻刻『成瀬正一日記』1911~1916、「香川大学国文研究」1996~2017、香川大学国文学会
== 外部リンク ==
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