「ドースト・ムハンマド・ハーン」の版間の差分

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{{otheruses|アフガニスタンの君主|モグーリスタン・ハン国の君主|ドースト・ムハンマド}}
[[画像:Dost Mohammad Khan of Afghanistan.jpg|thumb|ドースト・ムハンマド・ハーン]]
'''ドースト・ムハンマド・ハーン'''([[1793年]][[12月23日]] - [[1863年]][[6月9日]]<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848">「ドゥースト・ムハンマド」『岩波世界人名事典」p.1848</ref>)は、[[アフガニスタン]]の[[国王]](在位:[[1826年]]/[[1835年]] - [[1863年]])。[[カ<ref>「ドゥブル]]の統治者だった[[スト・ムハンマド・アズィーム]]の弟」『岩波世界人名事典」p.1848 は、在位期間を1826年-1863年とする『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326は、1826-39, 1843-63と二期に分ける。</ref>)。サドーザイ朝に代わる[[ラクザイ部族朝]]の創始者<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。'''ドゥッラニー家出身スト・ムハンマド'''<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />とも表記される
 
== 生涯 ==
1826年、[[ハーン]]を宣言して国家を建て、1835年からは国王(アミール)となった。イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。アフガニスタンの強化を望まないイギリスは、旧王家サドザイの[[シュジャー・シャー]]と手を結ぶことを選び、1838年、アフガニスタンに対し宣戦を布告した。
バーラクザイ部族ドゥッラーニー家出身で、サドーザイ朝([[ドゥッラーニー朝]])の分族である。サドーザイ朝は部族的支配の国家であり、王族がペシャワール、カシミール、カンダハール、カーブルの諸州に分割して統治していた<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.325</ref>。[[カーブル]]の統治者だった[[ムハンマド・アズィーム]]の弟<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326</ref>。
 
1826年に兄が没すると、[[ハーン]]を宣言して国家を立てた<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326</ref>。1835年からはアミールとなった。なお、サドーザイ朝の王は「シャー」というイラン的な称号を名乗っており<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、「[[アミール]]」というイスラム的な呼称は、シーク教徒やインドのイギリス人に対する宗教意識の現われと見なされている<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>。
アフガニスタンに侵攻したイギリス軍は、1839年8月、カーブルを占領し、シュジャー・シャーを国王とすることができた。ドースト・ムハンマドは、中央アジアのブハラに亡命し、その後、帰還して再び抵抗するもののイギリスに敗れ、1840年11月に投降して英領インドに連れ去られた。
 
1826年、[[ハーン]]を宣言して国家を建て、1835年からは国王(アミール)となった。イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。アフガニスタンの強化を望まないイギリスは、旧王家サドザイの[[シュジャー・シャー]]と手を結ぶことを選び、1838年、アフガニスタンに対し宣戦を布告した([[第一次アフガン戦争]])
しかし、[[第一次アフガン戦争]]と呼ばれるこの戦争では、各地で侵略軍に対する反乱が勃発し、大損害を出したイギリス軍は、戦争の継続を断念せざるを得なかった。
 
アフガニスタンに侵攻したイギリス軍は、1839年8月、カーブルを占領。ドースト・ムハンマドはイギリスに捕らえられ<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />、シュジャー・シャーがイギリスの後援の下でアフガニスタンの国王となった。しかし、各地で侵略軍に対する反乱が勃発した。大損害を出したイギリス軍は、戦争の継続を断念せざるを得なかった。
1843年、イギリスは、ドースト・ムハンマドを解放し、彼は再び王位に戻ることができた。
 
1842年にシュジャー・シャーが暗殺されると、再びアフガニスタンの主権を握る<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。1855年、イギリスとの間に友好条約を締結<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。その後はイギリスの対イラン戦争を支援した<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。その勢力はアム川以南のトルキスタンに及び<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、1863年にはサドーザイの手にあった[[ヘラート]]を併合するなど<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" /><ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼ確定した<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>。
 
== 脚注 ==
{{先代次代|[[アフガニスタン国王]]<br>([[バーラクザイ朝]])|[[1818年]] - [[1839年]]|[[:en:Ayub Shah Durrani|Ayub Shah Durrani]]|[[シュジャー・シャー]]}}
{{Reflist}}
 
{{先代次代|[[アフガニスタン国王]]<br>([[バーラクザイ朝]])|[[18181826年]] - [[1839年]]|[[:en:Ayub Shah Durrani|Ayub Shah Durrani]]|[[シュジャー・シャー]]}}
{{先代次代|[[アフガニスタン国王]]<br>([[バーラクザイ朝]])|[[1843年]] - [[1863年]]|[[シュジャー・シャー]]|[[シール・アリー・ハーン]]}}
{{Normdaten}}