「ピエール・ジャンサン」の版間の差分

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==経歴==
ジャンサンは[[パリ]]に生まれた。父は有名な音楽家であった。数学と物理学を学び、リセ・シャルルマーニュなどで教師を務めたが、天文観測隊の隊員として世界を飛びまわる生涯をおくった。1857年から数度、[[方位磁針|磁気偏]]の研究のために[[ペルー]]にでかけた。1874年には金星の日面通過の観測のために日本を訪れ、12月9日に観測に成功した。([[長崎市]]金比羅山(琴平山)に観測記念碑がある)。[[金星]]の日面通過は1882年の[[アルジェリア]]でも観測している。日食を追いかけてさまざまな土地に観測にでかけた。1867年にはイタリアの[[トラーニ]]、1868年にはインド南部の[[グントゥール]]、1870年には[[アルジェ]]、1875年には[[タイ王国|タイ]]<!--Siamは旧称-->、1883年には[[カロリン諸島]]、1905年にはスペインの[[アルコセーブル]]<!--Alcosebre-->を訪れている。1870年の観測では、[[普仏戦争]]でプロシア軍に包囲されたパリから気球にのって脱出し、観測に加わった。1893年69歳の時、大気の影響を軽減するために[[モンブラン]]の頂上付近で4日にわたって観測を行った。1875年から[[ムードン天文台]]長になった。
 
ジャンサンは[[1868年]]8月18日に行った[[インド]]での日食観察で、新しい元素のスペクトルを発見した。同年10月20日にロッキャーがイギリスで行った太陽光スペクトルの観測で同じスペクトルを発見した。この元素は、後にロッキャーと[[エドワード・フランクランド]]によってヘリウムと名づけられた。