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また父が司隷校尉時代に、各役所に先人の肖像などを提出させていたが、応劭はそれを編纂して『状人紀』と命名した。また、当時の事柄を論じた『中漢輯序』や、物や事柄について弁じ習俗や嫌疑を解釈した『風俗通』を著した。その他、『漢書』の集解を著しており、これは『漢書』[[顔師古]]注に多数引用されている。著述したのは全部で136篇あった。
 
その後、[[ギョウ|鄴]]で死去した。弟の応珣の子である応瑒・応璩も文才で知られた。応瑒は所謂「建安七子」の一人に数えられている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[王粲]]伝注引『典論』)。
 
== 参考文献 ==