「アルトマルク号事件」の版間の差分

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ノルウェーの士官は船に乗り込んでおおまかな捜索を行い、ドイツの乗員は同船が全く商業的な目的で運行していると約束した。最初の調査は[[水雷艇]]TryggによってLinesøy島沖で行われ、次に[[ソグネフィヨルド]]で水雷艇Snøggにより、そして最後はHjeltefjordにおいて[[カルステン・タンク=ニールセン]][[提督]]と[[駆逐艦]][[ガルム (駆逐艦)|ガルム]]によって非公式に行われた。3回目の調査の後、アルトマルクは魚雷艇SkarvとKjell、および巡視艇Firernの護衛によって南方へ誘導された。伝えられるところでは、イギリスの捕虜は船倉に閉じ込められていたが、大声で叫んだり船の側壁を叩いたり、懸命に合図を送ろうとしたので、ドイツの乗組員はウインチを動かすことなどによってその音をかき消さなければならなかったという。しかしノルウェーの捜索隊は船倉まで調べに入ることはなく、船はそのまま通航を許された。
 
アルトマルクは同じ日、エーゲルスンで[[イギリス空軍]]機に発見され、直ちに海軍に通報された。駆逐艦[[コサック (駆逐艦・2代)|コサック]]({{仮リンク|フィリップ・ヴァイアン|en|Philip Vian}}艦長)によって阻止されそうになったアルトマルクは、{{仮リンク|イェッシングフィヨルド|en|Jøssingfjord}}に避難した。しかしコサックはその翌日にその後を追い、接舷を強要した。イギリス側は2月16日22時20分にアルトマルクに乗り込み、乗組員を圧倒して7名を殺害の末、捕虜を解放した。コサックは、2月17日の真夜中過ぎにイェッシングフィヨルドを退去した。
 
ノルウェーの護衛艦は抗議したが、介入はしなかった。ノルウェー政府によって後に出された公式見解は、[[国際条約]]によれば、[[中立国]]は圧倒的に優勢な力に対する抵抗の義務は負っていないというものだった。