「吉川英治」の版間の差分

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=== 敗戦後の活動 ===
敗戦後は、その衝撃から筆を執ることができなくなってしまった。親友の[[菊池寛]]の求めでようやく書き始め、高山右近』『」「大岡越前で本格的に復活する。ただしこのころ「[[宮本武蔵 (小説)|宮本武蔵]]」の版権をめぐって講談社と[[六興出版]](英治の弟晋が勤めていた)との間で騒動が起きた。[[1950年]](昭和25年)より、敗れた平家と日本を重ねた「[[新・平家物語]]」の連載を開始する。連載7年におよぶ大作で、この作品で第1回[[菊池寛賞]]([[1953年]])を受賞。また[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]からの強い要望で、[[1955年]](昭和30年)より自叙伝「忘れ残りの記」を連載。なおこのころ身を隠していた[[辻政信]]に会い、逃亡資金を渡している。新・平家物語終了後は、「[[私本太平記]]」「[[新・水滸伝]]」を連載する。私本太平記は、従来逆賊といわれてきた[[足利尊氏]]の見方を改めて描く。[[1960年]](昭和35年)[[文化勲章]]受章。しかし通俗作家と見なされ、[[芸術院]]には入れられなかった。
 
「私本太平記」の連載終了間際に[[がん癌]]にかかり、翌年夏にがん[[悪性腫瘍]]が転移し悪化。[[1962年]](昭和37年)9月7日、肺がんのため[[築地]][[国立がん研究センター|国立がん研究センター中央病院]]で死去。享年70歳。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は、崇文院殿釋仁英大居士。贈[[従三位]](没時叙位)、贈[[勲一等瑞宝章]](没時叙勲)。疎開先だった[[東京都]][[青梅市]]に、吉川英治記念館がある。なお[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[赤坂 (東京都港区)|赤坂]]にあった旧吉川邸は[[講談社]]の所有となり、(同社での企画出版のための)泊まり込みでの執筆や、座談・打ち合わせに使用された。
 
== 年譜 ==