「ジャン・デュビュッフェ」の版間の差分

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1923年には、デュビュッフェはハイデルベルク大学附属病院のプリンツホルンの著書『精神病者の芸術性』<ref>{{Cite book|和書|author=ハンス・プリンツホルン|translator=林晶、ティル・ファンゴア|title=精神病者はなにを創造したのか|publisher=ミネルヴァ書房|date=2014|isbn=978-4-623-07074-9}} ''Bildnerei der Geisteskranken'', 1922.</ref>を入手しており、フランスとスイスの精神病院を訪ねて作品を探した<ref name="naid40005217911">{{Cite journal |和書|author1=川口幸也 |date=1999-04 |title=カヴァリング・アウトサイド-アウトサイダー・アートの政治学 |journal=Collage |issue=2 |pages=2-7}}</ref>。そうして、{{仮リンク|アドルフ・ヴェルフリ|en|Adolf Wölfli}}の遺作、アイローズ・コルパス、[[ルイ・ステー]]に出会った<ref name="naid40005217911"/>。1945年には<ref>{{Cite journal |和書|date=2017-02|title=|journal=美術手帖|volume=69|number=1049|isbn=4910076110274|page=35}}</ref>、[[アール・ブリュット]](生の芸術)と呼んだ、強迫的幻視者や精神障害者の作品には、精神の深淵の衝動が生のままでむき出しに表出されており、ルネッサンス以降の美しい芸術(Beaux-Arts)に対して反文化的だとみなしていた<ref name="naid40005217911"/>。
 
1945年7月には、スイスの[[ベルン]]近郊の精神病院にある小美術館を訪れ、アドルフ・ヴェルフリや{{仮リンク|ハイリンヒ・アントン・ミュラー|en|Heinrich Anton Müller}}の作品にも出会い感動し、この頃は作品を写真に納めることを目的としていた{{sfn|末永照和|2012|pp=109-111}}。ローザンヌではルイ・ステーの作品に出会い、ジュネーヴでも患者の作品を集めた小美術館を案内してもらい、バーゼルでは刑務所に寄った{{sfn|末永照和|2012|pp=109-111}}。旅先から、8月28日付の画家[[ルネ・オーベルジョノワ]]への手紙で「アール・ブリュット」という言葉をはじめて記し{{sfn|末永照和|2012|pp=111-112}}、旅から帰った9月にはフランス南部のロデーズにある精神病院を訪れ{{sfn|末永照和|2012|pp=114-115}}、1945年末には画廊経営者のドルーアンを連れて2度目のスイス探訪を実現し、自らのために独学で作品を生み出す多くの者が存在することをジャンは思い知った{{sfn|末永照和|2012|pp=111-112}}。紹介者を通し営利目的もないジャンは好意的に捉えられ、収集の目的はなかったジャンの元には多くの作品が寄贈されコレクションとなっていく{{sfn|末永照和|2012|pp=114-115}}。人間の持つ芸術衝動について大勢に知ってもらいたいと思っていたところドルーアンから画廊の地下の提供があり、ここを「生の芸術センター」(フォワイエ・ダール・ブリュット)とし、1947年11月15日に開館した{{sfn|末永照和|2012|pp=114-115}}。最初の企画展は、作者も時代も不明の溶岩や玄武岩の彫像であった{{sfn|末永照和|2012|pp=114-115}}。精神障害者の芸術が焦点となる以前の当初は、民衆的石像や児童画、民族の仮面や落書きなども並べられたのである{{sfn|末永照和|2012|p=120}}。1948年にはセンターを永続的な研究所としようと、コレクションの保管先をユニヴェルシテ通りへ移し、「無償と非営利の団体」であるアール・ブリュット協会を設立した{{sfn|末永照和|2012|p=116}}。そうして1951年には100人の作者による1200点のコレクションが出来上がっていた{{sfn|末永照和|2012|p=121}}。資金不足などにより協会は解散する
 
[[ファイル:Losanna, collection de l'art brut, 01.JPG|サムネイル|300px|right|ローザンヌ市の[[アール・ブリュット・コレクション]]。]]