「パヴィアの戦い」の版間の差分

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== 経過 ==
カール5世が領有を主張する[[ミラノ]]を攻撃し失敗したフランソワ1世は主力軍をイタリアから撤退させたが、1524年、ナポリ総督ラノイ率いる神聖ローマ帝国連合軍は北部イタリアに分散していた残存フランス軍を掃討し、さらに2万の兵でフランス南部の[[プロヴァンス]]に侵攻した<ref name=matsumura>[https://books.google.co.jp/books?id=1LWWH21q9qMC&pg=PT92 パヴィアの戦い]『勝利を決めた名将たちの伝説的戦術』松村劭、PHP研究所, 2010</ref>。これに対しフランソワ1世は4万の兵を南下させて帝国軍をフランスから撤退させ、さらにイタリアに進撃した<ref name=matsumura/>。ミラノで疫病が流行中だったため、ラノイはミラノ南方のパヴィア城まで後退したがその間に多くの兵力を失い、追尾するフランス軍に対し、一部を城に残し、主力を東南に撤退させた<ref name=matsumura/>。フランス軍は城を包囲したが、フランソワ1世は軍を二分し、一部を[[スコットランド]]の[[:en:John Stewart, Duke of Albany|オールバニー候スチュアート]]に指揮させて[[ナポリ王国]]征服に向かわせ、さらに[[スイス傭兵]]軍の一部が前線を離れたこともあり、フランス軍の兵力は2万に減少した<ref name=matsumura/>。一方、帝国軍は増援し、城に残った味方を支援するため2万の兵を率いてパヴィアに戻った<ref name=matsumura/>。
 
城塞を包囲したフランス軍は、城内に残る敵の食料が尽きるの待ち、持久戦となっていた<ref name=drama>[http://dramatic-history.com/karl5/karl5-7.htm 第7話  イタリア征服を再び狙ったフランソワ1世、激闘のパヴィーアの戦いで捕虜となる]どらまちっく・ひすとりー</ref>。そこへ帝国軍の再編成部隊が駆け付けるが、中央集権化が早くから進み国王のために命をかけ働くという体制の整ったフランス軍と違い、傭兵や農民兵を主力とする帝国軍は長期戦となると士気が下がって総崩れとなる怖れがあったため、実質的な指揮官だったペスカラ公は短期決戦を決断し、城外の小河を迂回して一翼から包囲する奇襲作戦を1525年2月24日未明に決行、背後からの急襲に驚いたフランス軍は死者1万人を出し敗退した<ref name=drama/><ref name=matsumura/>。