「吉川金次」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎経歴: リンク修正
4行目:
1912年に栃木県[[塩谷郡]][[氏家町]](現在の[[さくら市]])で生まれる。実家は鋸鍛冶をしており、金次も氏家尋常高等小学校高等科卒業後は、東京に出て鋸の目立て(すり減った鋸やヤスリなどの目を鋭くする)業を営むようになった<ref name=A> 小山智庸「人間吉川金次の思い出」『海紅』2015年6月号。</ref>。また[[狂言師]]の[[野村万蔵]]に師事し、[[能面]][[彫刻]]なども手がけている<ref name=A/>。
 
かつて氏家を訪れた[[河東碧梧桐]]の影響もあり、[[1936年]]に碧梧桐去って以降の[[中塚一碧楼]]が主宰する『[[海紅]]』の同人となり、[[自由律俳句]]を詠むようになる。金次の自由律は層雲出身で後に[[新俳句人連盟]]を立ち上げる[[栗林一石路]]や[[橋本夢道]]のようなプロレタリア俳句が多く、碧門の多い海紅では異色の作風であり<ref name=B> 日野百草「戦前の自由律における社会性俳句」『橋本夢道の獄中句・戦中日記』 292-293頁。</ref>、一碧楼にとっても異質な「愛弟子」であった<ref name=A/>。また一石路や夢道と同様、思想犯として[[特別高等警察|特高]]に連行され、その時に拷問で耳を潰されている<ref name=B/>。そのため生涯、補聴器を欠かせなかった<ref name=B/>。
 
晩年は日本の鋸研究の第一人者としても活動。1977年、多岐にわたる創作活動を讃えられ、[[山岡荘八]]会長(当時)の東京作家クラブから第十四回文化人間賞が贈られた<ref name=A/>。1996年、84歳で没。