「ジョージ・バーナード・ショー」の版間の差分

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[[政治家]]としては一貫して[[進歩主義 (政治)]]に属し、穏健な[[社会主義]]([[社会民主主義]])を掲げ、後に[[イギリス労働党]]の前身となる[[フェビアン協会]]の会員として行動した。[[労働者]]を搾取する近代イギリスの行き過ぎた[[資本主義]]や退廃的な[[貴族]]趣味を嫌い、[[男女平等]]、土地改革、労働者保護などの社会改革や[[菜食主義]]に代表される健康的な食生活を信念としていた。フェビアン協会の為に数多くの文章や演説を通じた政治運動を展開したが、表立って権力を握る事は嫌っており選挙への立候補については幾度も固辞している。例外的に[[ロンドン市]]メトロポリタン行政区議会からセント・パンクラス地区{{enlink|Metropolitan Borough of St Pancras|a=on}}代表の区議会議員に選出された際には引き受けているが、フェビアン協会も含めたどの党や[[政治団体]]にも所属しない[[無所属]]議員として活動している。晩年には文学、教育、政治などでの業績を讃えて[[イギリス王室]]から[[ナイト]]称号の授与が提案されたが、これを拒否している。
 
芸術家として、またリベラリストとして[[自由主義]]や[[民主主義]]を基本的に肯定したが、その欠点である衆愚政治や退廃に無批判ではなく、[[ファシズム]]や[[ソ連型社会主義]]など[[独裁制]]や[[全体主義]]に理解を示す発言を行う場合もあった。人間社会に対する厭世主義から「無価値な人間の処分」をしばしば唱え、その観点から[[人種主義]]や[[優生学]]も肯定していた。後にイギリスが[[第二次世界大戦]]で[[枢軸国]]陣営と戦い、[[冷戦]]では[[アメリカ合衆国]]に協力して[[ソビエト連邦]]と対峙する中、こうした主張が批判される場合もあった。
 
持論である[[菜食主義]]による健康な生活もあってか長命を保ち、90歳を超えても健康的な生活を謳歌していた。その死も病や老いではなく、自宅で庭の手入れをしていて梯子から転落して[[骨折]]した際、受けた手術の経過が悪く[[腎臓]]浮腫を患ったためであった。1950年、94歳の生涯を終え、遺灰は遺言により妻の遺灰と共に自宅の庭園に[[埋葬]]された。