「コメット連続墜落事故」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Rurupon (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
[[ファイル:DH Comet 1 BOAC Heathrow 1953.jpg|thumb|300px|英国海外航空のコメットMk.I]]
'''コメット連続墜落事故'''(コメットれんぞくついらくじこ (''de Havilland Comet disasters''))は、1950[[1953代中期]]から[[1954年]]にかけ、世界最初の[[ジェット機|ジェット]][[旅客機]]である[[イギリス]]の[[デ・ハビランド DH.106 コメット|デ・ハビランド社製「コメット」Mk.I]]に連続して発生した、構造上の欠陥による[[航空事故]](空中爆発)の総称である。
 
事故原因の調査過程で、最先端の航空機であったコメット機に内在した、当時の[[航空工学]]および[[金属工学]]の分野で未知の領域にあった重大な欠陥が解明された。
7行目:
 
== デ・ハビランド コメット ==
デ・ハビランド コメット(この名称の機体としては2代目。形式「DH.106」)は、イギリス政府の商業輸送機に対する国家戦略的見地から、[[1944年]]にジェットエンジン搭載の小型郵便輸送機として開発計画が立案された。[[デ・ハビランド]]による実際の開発は[[1946年]]に着手、その過程で当初計画から大きく飛躍した全金属製の4発ジェット旅客機となり、試作初号機は[[1949年]]7月に初飛行した。
 
量産型コメットは[[1951年]]1月から[[英国海外航空]]に順次納入開始され、運行実施のために長期の準備期間を採ったうえで、[[1952年]]5月2日、史上初の実用ジェット旅客機として、英国海外航空の[[ロンドン]]-[[ヨハネスブルグ]]便に就航した。所要時間は従前のレシプロ旅客機に比較して半減され、振動の少ないジェットエンジンで高高度飛行を行うため居住性も高められたことで、ジェット旅客機の優位性を広く世に示した。
 
開発から就航に至る詳細な経緯については、[[デ・ハビランド DH.106 コメット]]の頁を参照のこと。
139行目:
コメットの疲労寿命はデ・ハビランド社の設計当初の予測と大きくかけ離れていたという結果となったが、その大きな乖離原因はどこにあったかということが、大きな問題となった。
 
そこで、開発当初に行なった試験の内容から見直しを行うことになった。当初の試験では実機同様の試験素材を使って、まず約2倍の安全率を持っていることを確認、その後に疲労試験を行なっていた。そが、一連事故後の調査で、この試験手順自体に問題があったことが発覚した。
 
強度検査の最初の段階で大きな荷重を加えると、開口部の隅のように[[応力]]の集中する部分の材料が伸びて[[塑性]]変形し、その後は亀裂が発生しにくくなることが判明した。このため、その後に疲労試験を繰り返し行なったとしても、亀裂が発生しにくいために疲労寿命が長くなってしまう事実が明らかになったのである。
147行目:
また、内圧試験とともに同じ試験素材で耐圧試験をしていたことが、見掛け以上に疲労強度を大きくしていたことも判明した。開発当初試験では、内部に0.56気圧を付加する1000回の内圧試験ごとに、倍の1.12気圧を外から加圧する1回の耐圧試験を行っていた。そのため内圧試験によって内部から生じていた亀裂(クラック)が、外からの圧力によって内周が塑性変形し、外周から箍(たが)をはめられるように(紙を丸めたものが輪ゴムをはめられた事で押さえられるように)なることで、亀裂を押しつぶしていたのである。
 
また、実機G-ALYUに対する1954年6月の加圧試験においても、耐圧試験を1度実施していた。そのため、耐圧試験を全く行っていければかった場合、G-ALYUの機体疲労寿命はさらに減少しており、実際の試験結果よりさらに早い時期に金属疲労による破壊が起きたはずと推測された。それは2機の事故機が、共に1000回前後の飛行で疲労破壊を発生させたことと符合するものであった。
 
結果として、地上における胴体の内圧疲労試験によって計算された疲労寿命は、試験中に行われる耐圧試験の効果で極めて長くなり、実機の疲労寿命を安全側に予測できていない(むしろ疲労寿命に至る期間の過大評価に繋がってしまった)ことが明らかになった。
191行目:
初期生産型のコメット1は引退したが、事故当時製作中だった改良型のコメット2は、胴体の外壁が強化されるなどの改造を受けて量産型13機が完成した。しかし連続事故によって評価は失墜しており、[[日本航空インターナショナル|日本航空]]や[[パンアメリカン航空]]などの世界各国の[[航空会社]]からの全ての発注が取り消されたため、イギリス政府が軍用[[輸送機]]として引き取った。また[[大西洋横断飛行]]が可能な機体として開発中だったコメット3も発注がなくなったため、1機だけ生産された原型機は主に[[ロールス・ロイス]]社のジェットエンジンの試験機(フライング・テストベッド)として運用された。
 
改良型コメットは新た安全対策加え、機体ストレッチで収容力を原型に倍する80名級に増大したコメット4(コメット3の改良型、ロールスロイス「エイヴォン (Avon)」ジェットエンジン搭載)として再デビューし、[[1958年]][[10月4日]]に世界で最初に大西洋を無着陸で横断する英国海外航空の定期航空路(ロンドン - [[ニューヨーク]])に就航した初めてのジェット旅客機になった。
 
しかし事故による信頼回復はなお難しかったうえに、4年間のブランクの間に[[ボーイング707]]や[[ダグラス DC-8]]、[[コンベア880]]といった、より高速で性能が高く、搭載乗客数が100名以上もあるアメリカ製ジェット旅客機がデビューしていたため、世界の航空会社の需要はそちらに流れてコメットの受注は伸びず、[[1964年]]にコメット4の生産は79機で終了した。