「楠木正成」の版間の差分

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# 楠木正成の地元である河内の金剛山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の{{読み仮名|字|あざ}}はない。
# 鎌倉幕府が[[正応]]6年([[1293年]])7月に駿河国の[[荘園]]入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を[[鶴岡八幡宮]]に寄進したと言う記録があり楠木村に北条[[得宗]][[被官]]の楠木氏が居住したと想定できる。
# 観心寺荘の地頭だった[[安達氏]]は1285年入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人[[長崎氏]]に[[霜月騒動]]で滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる<ref group="注">現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠(古文書では楠木)と言う地名が隣接して存在している。</ref>。
# 楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた[[元弘]]3年([[正慶]]2年、[[1333年]])閏2月の公家二条道平の日記である『後光明照院関白記』(『道平公記』)に <q>くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん</q> と言う[[落首]]が記録されている<ref>『後光明照院関白記』正慶2年閏2月1日条</ref>、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる<ref name="araisyutuji" />。
 
[[網野善彦]]は、[[楠木氏]]はもとは[[武蔵国]][[御家人]]で[[北条氏]]の[[被官]]([[御内人]])で、[[得宗]]領河内国[[観心寺]]地頭職にかかわって河内に移ったと推定した<ref name="aminokotob">[[網野善彦]]「楠木正成」『朝日 日本歴史人物事典』,kotobank. ISBN 978-4023400528</ref>。正成は幼少時に[[観心寺]]で仏典を学んだと伝わる<ref name=kakei/>。
 
また『[[吾妻鏡]]』には[[楠木氏]]が玉井、{{読み仮名|忍|おし}}、岡部、滝瀬ら[[猪俣党|武蔵猪俣党]]とならぶ将軍随兵と記されている<ref>海津一朗『楠木正成と悪党』ちくま新書185,1999年、p43 ISBN 978-4480057853</ref>
 
==== 悪党・非御家人説 ====
永仁3年(1295年)、東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、[[黒田俊雄]]はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は[[悪党]]的な荘官武士ではないかとした<ref>[[黒田俊雄]]『日本の歴史8 蒙古襲来』中央公論社、昭和40年、1965年、p455</ref>。
 
[[林屋辰三郎]]は河内楠氏が[[散所]]民の長であったとした<ref>『古代国家の解体』([[1955年]]東京大学出版会、新版1983年</ref><ref name=hyodo/>。[[兵藤裕己]]はこの説を有力とし、正成の行為も[[悪党]]的行為であるとした<ref name=hyodo>兵藤裕己『太平記 〈よみ〉の可能性』講談社1995年、講談社学術文庫2005年,p70-73</ref>。
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=== 挙兵以前 ===
[[元亨]]2年(1322年)、正成は得宗[[北条高時]]の命により、[[摂津国]]の要衝[[淀川]]河口に居する[[渡辺党]]を討ち、[[紀伊国]][[安]][[湯浅氏]]討ち殺害し阿弖河荘を与えられた(『[[高野春秋編年輯録大和]]』)の[[越智氏]]を撃滅している<ref name=aminokotob>新井・48頁</ref>。
 
この一連の状況は『[[高野春秋編年輯録]]』に詳しい。渡辺党を討った正成は[[高野山]]領を通過して紀伊安田へと向かい、安田壮を攻撃した<ref>新井・49頁</ref>。安田庄司は湯浅一族であり、当時湯浅氏は高野山との相論に負けて[[阿弖河荘]]の没収されており、この正成の攻撃は没収地の差押さえであったとされる<ref>新井・49頁</ref>。その結果、正成は幕府から得宗領となった阿弖河荘を与えられた<ref>新井・48頁</ref><ref name=aminokotob/>。
 
その後、正成は越智氏の討伐へと向かった。越智氏は幕府に[[根成柿]]の所領を没収され、さらには北条高時が興じる[[闘犬]]の飼料供出まで求められ、憤った[[越智邦永]]が自領で六波羅の役人を殺害するに至った<ref>新井・48頁</ref>。六波羅北方は討手として奉行人斎藤利行、小串範行らを二度にわたって派遣したが、そのゲリラ戦に手痛い敗北を喫していた<ref>新井・48-49頁</ref>。そのため、六波羅は正成を起用し、彼は越智氏を討つことに成功した<ref>新井・49頁</ref>。
 
新井孝重は正成が渡辺党、湯浅氏、越智氏といった反逆武装民を討滅したことは非常に興味深いと述べている<ref>新井・48-49頁</ref>。また、一連の軍事行動を否定する積極的な根拠は見いだせず、これらは本当にあったと考えている<ref>新井・48頁</ref>。新井は得宗被官であった正成が反逆武装民を討つのは当然の行為であると指摘し、この当時はまだ鎌倉幕府に忠実な「番犬」として畿内ににらみを利かせていたとしている<ref>新井・49頁</ref>。
 
正成による渡辺党、湯浅氏、越智氏の討滅に六波羅は感嘆の声を上げ、そして怖れたといい、世間の人々にもその強烈な印象を与えた<ref>新井・49頁</ref>。当時、畿内では悪党が幕府への反逆、合戦を繰り返し、その支配に揺らぎが生じていた<ref>新井・49頁</ref>。幕府は[[安藤氏の乱]]で手を焼かされており、合戦の名人である正成が悪党のエネルギーを吸収し、いずれ反逆したときへの不安を抱いたとされる<ref>新井・49-50頁</ref>。
 
=== 挙兵から鎌倉幕府滅亡まで ===
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[[元徳]]3年([[1331年]])2月、後醍醐天皇が道祐に与えた[[和泉国|和泉]]若松荘を正成は所領として得た<ref name=aminokotob/>。しかし、同年4月に倒幕計画が幕府側に知られると、8月に後醍醐天皇は笠置山に逃げ、正成らは挙兵する([[元弘の乱]])。なお、正成はこのとき笠置山に参向している<ref>「楠木正成」『日本大百科全書』</ref>。
そのため、正成は「[[悪党]]楠兵衛尉」として鎌倉幕府の追及を受けた<ref name=aminokotob/>。同年9月、[[六波羅探題]]は正成の所領和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した<ref name=kakei/>。
 
同月の[[笠置山の戦い]]で敗北した[[後醍醐天皇]]らは捕えられ、残る正成は赤坂城([[下赤坂城]])にて幕府軍と戦った([[赤坂城の戦い]])。赤坂城は急造の城であるため、長期戦は不可能と考えた楠木正成は、 同年10月21日夜に赤坂城に自ら火を放ち[[鎌倉幕府]]軍に奪わせた<ref name=aminokotob/>。鎌倉幕府は赤坂城の大穴に見分けのつかない[[焼死]]体を20-30体発見し、これを楠木正成とその一族と思い込んで同年11月に[[関東]]へ帰陣した。
 
赤坂城には阿瀬河荘落城後旧主[[湯浅宗藤]](湯浅孫六入道定仏)が幕府によって配置され、その旧領である正成の領地を与えられた<ref>新井・48頁</ref>。一方、正成は赤坂城の落城後、その後しばらく行方をくらました。同年末、後醍醐方の[[護良親王]]から左衛門尉を与えられた<ref name=aminokotob/>。
 
==== 赤坂城の奪還、和泉・河内の制圧 ====
元弘2年/正慶元年([[1332年]])4月3日<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事>『太平記』巻六「楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事」</ref>、正成は幕府によって赤坂城(下赤坂城)に配置されていた[[湯浅宗藤]](湯浅孫六入道定仏)の赤坂城を襲撃した。正成は城中に兵糧が少なく、領地の紀伊国の阿瀬河から人夫5、6百人に兵糧を持ち込ませ、夜陰に乗じて城に運び入れることを聞きつけ、その道中を襲って兵糧を奪い、自分の兵と人夫やその警護の兵とを入れ替え、空になった俵に武器を仕込んだ<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。楠木軍は難なく城内に入ると、俵から武器を取り出して鬨の声を上げ、城外の軍勢もまた同時に城の木戸を破った<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。湯浅宗藤は一戦も交えることなく降伏し、正成は赤坂城を奪い返した<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/><ref name=aminokotob/>。
 
楠木勢は湯浅氏を引き入れたことで勢いづき、瞬く間に和泉・河内を制圧し、一大勢力となった。そして、5月17日には摂津の住吉・天王寺に進攻し、渡部橋より南側に布陣した<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。今日には和泉・河内の両国からは早馬が矢継ぎ早に送られ、正成が京に攻め込むと可能性がある知らせたため、洛中は大騒ぎとなった。このため、六波羅探題は隅田、高橋を南北六波羅の軍奉行とし、5月20日に京から5千の軍勢を派遣した<ref name=楠出張天王寺事付隅田高橋並宇都宮事/>。
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『[[梅松論]]』には、後醍醐帝の軍勢が足利軍を京都より駆逐したことに前後して、正成が新田義貞を誅伐して、その首を手土産に足利尊氏と和睦するべきだと天皇に奏上したという話がある<ref>峰岸・107頁</ref>。その根拠として、確かに鎌倉を直接攻め落としたのは新田義貞だが、鎌倉幕府倒幕は足利尊氏の貢献によるところが大きい<ref>峰岸・107頁</ref>。さらに義貞には人望、徳がないが、足利尊氏は多くの諸将からの人望が篤い、九州に尊氏が落ち延びる際、多くの武将が随行していったことは尊氏に徳があり、義貞に徳がないことの証である<ref>峰岸・107頁</ref>、というものであった。
 
正成のこの提案は、『梅松論』にしか記載されておらず<ref>山本・205頁</ref>、事実かどうかは不明である。しかし、歴戦の武将であり、ゲリラ戦で相手を翻弄する手段を得意とし洞察力に長けた正成は純粋に武将としての器量として、義貞よりも尊氏を高く評価していた<ref>峰岸・108頁</ref>。加えて、義貞と正成は、相性があまりよくなかったといわれる。義貞は京都の軍勢を構成する寺社の衆徒や、その他畿内の武士達とは関係が薄く、『太平記』などに描かれる義貞は、鎌倉武士こそを理想の武士とする傾向があり、彼らへの理解に乏しかった。河内国などを拠点に活動する正成は、この点において、義貞と肌が合わなかったと考えられる<ref>山本・205頁</ref>。一方で、尊氏は寺社への所領寄進などを義貞よりも遥かに多く行っていて、寺社勢力や畿内の武士との人脈も多かった。義貞よりも尊氏の方が理解できる、尊氏の方徳があると正成が判断してもおかしくはないと考えられている<ref>山本・205頁</ref>。
 
この提案は、天皇側近の公家達には訝しがられ、また鼻で笑われただけであり<ref>山本・204頁、峰岸、107頁</ref>、にべもなく却下されてしまった<ref>峰岸・107頁</ref>。正成は尊氏と和睦するよう進言したが容認されなかったばかりか、和睦を進言した事で朝廷の不信を買い、国許での謹慎を命じられた。そのため、3月に後醍醐は義貞を総大将とする尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣したが、正成はこの追討軍からは外されている。
 
義貞は[[播磨国]]の[[白旗城]]に篭城する足利方の[[赤松則村]](円心)を攻めている間に時間を空費し、[[延元]]元年/建武3年([[1336年]])4月に尊氏は[[多々良浜の戦い]]で九州を制覇して体制を立て直すと、京都奪還をめざして東進をはじめた。尊氏は[[高師直]]らと博多を発ち、[[備後国]]の[[鞆の浦|鞆津]]を経て、四国で[[細川氏]]・[[土岐氏]]・[[河野氏]]らの率いる船隊と合流して海路を東進し、その軍勢は十万を越していた。一方、義貞の軍勢はその数を日ごとに減らし、[[5月13日]]に兵庫((現[[兵庫県]][[神戸市]][[中央区_(神戸市)|中央区]]・[[兵庫区]]))に到着した時には2万騎を切っていた<ref>『太平記』巻十六「新田殿被引兵庫事」</ref>。
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だが、戦いが始まると、連合軍は多勢に無勢であったため、正成と義貞の軍勢は引き離されてしまった<ref>山本・218頁</ref>。正成は正季に「敵に前後を遮断された。もはや逃れられない運命だ」と述べ、前方の敵を倒し、それから後方の敵を倒すことにした<ref name=正成兄弟討死事>『太平記』巻十六「正成兄弟討死事」</ref>。
 
正成は700余騎を引き連れ、足利直義の軍勢に突撃を敢行した。菊水の旗を見た直義の兵は取り囲んで討ち取ろうとしたが、正成と正は奮戦し、良き敵と見れば戦ってその首を刎ね、良からぬ敵ならば一太刀打ち付けて追い払った<ref name=正成兄弟討死事/>。正成と正季は7回合流してはまた分かれて戦い、ついには直義の近くまで届き、足利方の大軍を蹴散らして須磨、上野まで退却させた<ref name=正成兄弟討死事/>。直義自身は薬師寺十郎次郎の奮戦もあって、辛くも逃げ延びることができた<ref name=正成兄弟討死事/>。
 
だが、尊氏は直義が退却するのを見て、「軍を新手に入れ替えて直義を討たせるな」と命じた<ref name=正成兄弟討死事/>。そのため、[[吉良氏]]、[[高氏]]、[[上杉氏]]、[[石堂氏]]の軍6千余騎が湊川の東に駆けつけて後方を遮断しようとしたため、正成は正季ともに引き返して新手の軍勢に立ち向かった<ref name=正成兄弟討死事/>。
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* 新井孝重『楠木正成』[[吉川弘文館]]、2011年
* {{Cite book|和書|author=[[峰岸純夫]]|title=新田義貞|publisher=[[吉川弘文館]]〈人物叢書〉|isbn=4642052321|date=2005-5-10}}
* {{Cite book|和書|author=山本隆志[[新井孝重]]|title=新田義貞護良親王<small> 関東を落すことは子細な武家よりも君の恨めく渡らせ給ふ</small>|publisher=[[ミネルヴァ書房]]日本評伝選|isbn=4623044912|date=2005-10-10}}
 
== 関連項目 ==