「松平昌親」の版間の差分

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=== 第5代藩主・松平昌親として ===
==== 後継問題 ====
[[延宝]]2年([[1674年]])、福井藩主・光通が自殺した。後継者問題に対する外戚からの圧力に耐えかねたのが理由と言われている。光通は自殺する直前、「家督は昌親に譲るように」という遺言を残していたが、これが問題となり、家中を三分する家督争いが起こった。後継者候補として他にそもそも光通には[[松平直堅]]という庶子がおり、また、光通・昌親より上の兄(庶兄)である[[松平昌勝]]もいた。側室腹の庶子とは言えど、実子である直堅が本来は跡を継ぐはずであるが、この直堅の存在は、光通時代から主に外戚(光通の正室の実家である[[越後国|越後]][[越後高田藩|高田藩]])から問題視されており、また昌親の兄である昌勝も、長幼の順から言えば昌親よりも後継にふさわしいと考えられた。光通があえて遺言したのには光通なりの思慮があったのだろうと思われるが、家中は「昌親」「直堅」「昌勝」の三派に分裂し、前藩主の息子である直堅を擁することを意図した藩士50人ほどは結託し、集団で江戸の直竪の元へ、または幕府への訴えにと向かった<ref>直堅は親族分家である越前[[大野藩]]によって江戸にて庇護されていた。</ref>。一方、昌と昌勝を支持する藩士たちも藩主の座への野心を見せた。これらの動きに対して家老の[[芦田図書]]([[依田康勝]]子孫)は、亡き光通の遺書を幕府に提出することで、昌親の家督相続の正当性を訴え、事態の収束を図った。幕府はこれを認め、第5代藩主には昌親が就任することとなったのである。この藩主不在なった吉江藩は廃藩となり、その所領は元の福井藩に併合された。この縁により、元の吉江藩領一帯はその後も各種税を免除された。また、福井藩主就任時に'''昌親'''(まさちか)と改名した。
 
==== 隠居 ====