「藤原房前」の版間の差分

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内臣への任官、長屋王の変への不参加、内臣の解任について追記
→‎経歴: 死亡に関する状況追記
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いずれにしても、房前は[[六衛府]]の筆頭格であった[[中衛府]]を[[近衛大将|大将]]として管轄する立場にあり、長屋王を糾問するにあたって藤原宇合らが率いる六衛府の兵士が実際に出動したにも関わらず、この政変での房前自身の活動記録が一切ない。さらには、変後に武智麻呂は[[大納言]]に昇進、麻呂は従三位に昇叙される一方で、房前は全く昇進に与ることもなかった。いずれにしても、長屋王の変の結果、武智麻呂が不比等の後継者となることが明確になった。
 
同年9月に房前は[[中務省|中務卿]]を兼ねるが、これは長屋王に代わって太政官を領導することになった武智麻呂が房前の政治力を抑制するために、内臣から遷任させたものとする見方がある。さすがに元正上皇や県犬養三千代が顕在の状況で内臣を解任することはできず、令制で職掌が類似している中務卿に任じたというものである<ref>木本[2013: 149]</ref>。ただし、内臣は元正天皇が首皇子に[[譲位]]した時点で任を解かれたとする意見もある<ref>中川収「続藤原武智麻呂と房前」『政治経済史学』347、1995年</ref>。なお、武智麻呂は太政官の首班となり天平6年([[734年]])には[[従二位]]・[[右大臣]]に至るが、房前は他氏族とのバランスもあり、[[官位]]は弟たちと同様に正三位・参議に留まる。天平9年([[737年]])4月17日に他の兄弟に先んじて[[天然痘]]に倒れた。[[享年]]57。最終官位は参議[[民部卿]]正三位
 
天平9年([[737年]])4月17日に他の兄弟に先んじて[[天然痘]]に倒れた。[[享年]]57。最終官位は参議[[民部卿]]正三位。大臣 (日本)#律令制の大臣|大臣]]の形式で[[葬儀]]を行うこととされたが、房前の家族は固辞したという。他の兄弟が7月半ばから8月初旬の短期間に天然痘で没したのに比べ、房前の死亡時期がやや離れていることから、房前は他の兄弟と比較的接触が少なかったとみる説もある<ref>木本[2013: 241]</ref>。なお、四兄弟が全て没し[[知太政官事]]・[[鈴鹿王]]と大納言・[[橘諸兄]]以下の新しい太政官体制が発足したのち、10月になってから房前は正一位・左大臣を[[追贈]]され、家族に[[食封]]2000石が与えられている。
 
房前の子孫である[[藤原北家]]は、藤原四兄弟の子孫[[藤原四家]]の中で最も繁栄した。