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| notes = {{Campaignbox 第四次中東戦争}}
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'''第四次中東戦争'''(だいよじちゅうとうせんそう、その他呼称は「[[第四次中東戦争#名称|名称]]」を参照)は、  [[1973年]]10月に[[イスラエル]]と[[エジプト]]・[[シリア]]をはじめとする[[アラブ諸国]](以下、アラブ諸国を総称する際に「アラブ」という名称を用いる)との間で行われた[[戦争]]の名称。[[中東戦争]]の一つに数えられる。
 
''中東戦争の全体については、[[中東戦争]]を参照''
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[[1973年]][[10月6日]]、[[イスラエル]]における[[ユダヤ暦]]で最も神聖な日「'''[[ヨム・キプル|ヨム・キプール]]'''」(贖罪の日、{{lang-he|יום כיפור}}、{{lang-en|Yom Kippur}})に当たったこの日、6年前の[[第三次中東戦争]]でイスラエルに占領された領土の奪回を目的として[[エジプト]]・[[シリア]]両軍がそれぞれ[[スエズ運河]]、[[ゴラン高原]]正面に展開する[[イスラエル国防軍]](以下イスラエル軍)に対して攻撃を開始した。
 
「ヨム・キプール」の日に攻撃を受けた上{{refnest|group="注"|もっとも、開戦時にイスラエル軍の[[予備役]]兵は自宅にいるか[[シナゴーグ]]で祈祷をしていたため、[[動員]]作業はむしろスムーズに進んだ<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 213.</ref>。}}、第三次中東戦争以来アラブ側の戦争能力を軽視していたイスラエルはアラブ側から奇襲を受ける形となり、かなりの苦戦を強いられることとなったが、(イスラエル軍の主力である)予備役部隊が展開を完了すると、アメリカの支援等もあって戦局は次第にイスラエル優位に傾いていき、[[10月24日]]、国際連合による停戦決議をうけて停戦が成立した際、イスラエル軍は逆にエジプト・シリア領に侵入していた。
 
純軍事的にみればイスラエル軍が逆転勝利をおさめたのだが、戦争初期にとはいえ[[第一次中東戦争|第一次]]、[[第二次中東戦争|第二次]]、第三次中東戦争でイスラエルに対し負け続けたアラブ側がイスラエルを圧倒したという事実は(イスラエルはアラブ側に対して負けるはずはないという)「イスラエル不敗の神話」を崩壊させ、逆にイスラエルに対して対等な立場に着くことができたエジプトは[[1979年]]、[[エジプト・イスラエル平和条約]]を締結し、[[1982年]]にシナイ半島はエジプトに返還された(同年ゴラン高原はイスラエルが一方的に併合を宣言した)。
 
この戦争は、[[冷戦]]期における地域紛争の中でも比較的新しい兵器が大規模な形で投入され、特に[[ミサイル]]兵器の活躍([[9M14 (ミサイル)|9M14「マリュートカ」(AT-3「サガー」)対戦車ミサイル]]、双方が史上初めて[[対艦ミサイル]]を使用した[[ラタキア沖海戦]]など)はめざましく、[[戦車#冷戦期 - 現代|第三世代主力戦車]]の開発など各国の兵器開発に少なからぬ影響を与えた。
 
また、戦争中行われた[[アラブ石油輸出国機構]](OAPEC)の親イスラエル国に対する石油禁輸措置とそれに伴う[[石油輸出国機構]](OPEC)の石油価格引き上げは[[オイルショック#第1次オイルショック(第1次石油ショック・第1次石油危機)|第1次オイルショック]](第1次石油危機)を引き起こし、[[日本]]をはじめとする諸外国に多大な経済混乱をもたらした。
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=== 第三次中東戦争(1967年) ===
[[File:Six Day War Territories 2.png|thumb|250px|イスラエルは第三次中東戦争の勝利により、上図の肌色の部分を占領した。アラブ側はこの戦争の復讐を誓い、第四次中東戦争の要因の一つとなった。]]
[[1967年]][[6月5日]]、[[イスラエル空軍]]は[[エジプト]]、[[ヨルダン]]、[[シリア]]、[[イラク]]の各空軍基地に対して攻撃を開始し、[[第三次中東戦争]]が勃発した。
 
以前から[[チラン海峡]]{{refnest|group="注"|[[シナイ半島]]の南端に位置し、ここを封鎖されるとイスラエルは[[紅海]]方面への進出が困難になる。そのためイスラエルはここの封鎖を戦争行為とみなしていた。<ref>ヘルツォーグ、『図解中東戦争』、p147。</ref>}}の封鎖や部隊の展開により、「イスラエルの破壊」を声高に唱えていたアラブ側(エジプト・ヨルダン、シリアなど)にとってこの「先の先」を狙ったイスラエル軍の攻撃はまさに「'''[[奇襲]]'''」であり、開戦わずか一日でアラブ側の航空戦力は壊滅、続く地上戦でもイスラエル軍の前にアラブ軍は敗走を重ね、イスラエルは六日間でエジプトから[[シナイ半島]]全域を、ヨルダンから[[ヨルダン川西岸]]を、そしてシリアから[[ゴラン高原]]を奪取して戦争は終結した。
 
イスラエルはこの圧倒的勝利により、アラブ側がすぐに講和に応じるものだと思っていたが、アラブ側にとって領土を喪失したままでいられるはずも無く、9月の[[:en:Khartoum Resolution|ハルツーム会議]]における「'''3つのノー'''」(Three No's)<ref group="注">「'''イスラエルと和平を結ばず'''」(No peace with Israel)、「'''イスラエルを承認せず'''」(No recognition of Israel)「'''それ(イスラエル)と交渉せず'''」(No negotiations with it)</ref>に代表されるようにあくまでイスラエルとの徹底抗戦を望んだ。
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だが、前述のようにアラブ側は「弱いアラブ軍」を演出する裏で軍の改革を推し進め、そのようなイスラエル軍の戦術への対処も行っていたのであった。
 
[[1971年]]からアラブ側はイスラエルへの挑発を強め<ref group="注">サダトは1971年に「今年は決断の年である」、1973年には「軍事解決のみが残された道」と演説した。</ref>、1973年5月まで戦争の危機が高まるごとにイスラエルは年1回のペースで計3回の[[動員|動員令]]を発令した。だが3回とも戦争に発展することはなく、とくに1973年5月の動員は6200万[[新シェケル|イスラエルポンド]](45億5400円)<ref>ドロジ、『イスラエル生か死か(1)』、p5-7。</ref>という[[動員#動員の影響|経済損失]]から国民の不満が高まったため、イスラエル軍はこれ以上むやみに動員令を発令することはできなくなっていた。
 
また[[1972年]]5月30日の[[日本赤軍]]による[[テルアビブ空港乱射事件|ロッド空港乱射事件]]や9月5日の[[ミュンヘンオリンピック事件]]などユダヤ人が拘束・殺害される事件が世界中で多発し、イスラエルは事件への対応や[[ミュンヘンオリンピック事件#イスラエルによる報復作戦|報復作戦]]に忙殺されることとなった。
 
=== 開戦前夜(1973年9月13日 - 10月6日) ===
[[1973年]]9月13日、シリアの湾岸都市[[ラタキア]]に面するラタキア沖上においてイスラエル空軍とシリア空軍が勃発し、イスラエル側が1機、シリア側が13機の航空機を喪失した。これに呼応する形でゴラン高原ではシリア軍の部隊が本格的な展開を始めた<ref>マーティン、千本 『イスラエル全史』(下)、p. 203.</ref>。同時にスエズ運河正面では「'''タヒール(解放)23'''」(Tahir 23) 軍事演習を称してエジプト軍の大規模な展開が公然と進められた。当初イスラエルはゴラン高原では空中戦の影響、スエズ運河正面では「あくまで軍事演習」であると信じたため、アラブ側の動向にほとんど対応策を取らなかった。
 
9月29日、[[チェコスロバキア]]・[[オーストリア]]国境において2人のパレスチナ人テロリストがソ連出身のユダヤ人を乗せて[[ウィーン]]に向かっていた列車を乗っ取り、ユダヤ人5人とオーストリア人税関職員1人を人質に取る事件があった。当時のオーストリア首相[[ブルーノ・クライスキー]]が[[シェーナウ]]のユダヤ人移民中継キャンプの閉鎖を提案、人質は解放された。イスラエルはオーストリアの対応に反発し、政府も[[ゴルダ・メイア]]首相が直々にオーストリアまで向かうなど<ref group="注">成果はなく、メイアは「コップ一杯の水も出してくれなかった」と漏らしている。</ref>の対応に追われた。この事件はテログループがシリア軍の支配下組織とつながりがあったことから、アラブ側の欺瞞工作であったとする説もあるが、真相は不明である。いずれにせよイスラエルの世論は主にこの事件に注目し、国境付近でのアラブ軍の展開は見過ごされがちとなった。
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{{Main|{{仮リンク|ゴラン高原の戦い (第四次中東戦争)|he|קרבות הבלימה והתקפת הנגד הישראלית ברמת הגולן|label=ゴラン高原の戦い}}|[[ナファク基地攻防戦]]|[[涙の谷]]|{{仮リンク|第一次ヘルモン山攻防戦|en|First Battle of Mount Hermon}}}}
 
ゴラン高原方面では13時58分からのシリア空軍機による空爆に続き、14時5分、野砲・ロケット砲約300門が15時まで攻撃準備射撃を行った、5個師団(3個歩兵師団、2個戦車師団後方で待機)がゴラン高原に突入した。<ref name="高井47">高井「ゴランの激戦」P47。</ref>対するイスラエル軍部隊は停戦ライン上の警戒部隊を除けば1個機甲師団([[第36機甲師団 (イスラエル国防軍)|第36機甲師団]])、戦車数にしてシリア軍1,220輌{{Refnest|group="注"|各歩兵師団の戦車定数は240輌であり、戦車師団は250輌である。<ref>高井「ゴランの激戦」P41 - 42</ref>}}対イスラエル軍177輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P30.</ref>である。
 
ゴラン高原北側の攻撃を担当したシリア軍第7歩兵師団の攻撃はうまくいかなかった。第36機甲師団所属の[[第7機甲旅団 (イスラエル国防軍)|第7機甲旅団]]は停戦ライン付近の丘に陣取り、第7歩兵師団の戦車やその他車輌を次々と打ち取っていったからである。のちに「涙の谷」と呼ばれることになるこの場所で、第7歩兵師団は後方に待機していた第3戦車師団や精鋭の{{仮リンク|共和国親衛隊 (シリア軍)|en|Republican Guard (Syria)<!-- [[:ja:共和国防衛隊 (シリア)]] とリンク -->|label=共和国親衛旅団|FIXME=1}}の増援を得つつ、昼夜を問わず攻撃を仕掛けた。10月9日には第7機甲旅団も稼働戦車が7輌(定数105輌)にまで低下した<ref name="Dunstan59">Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P59.</ref>が、シリア軍は結局最後まで第7機甲旅団の陣地を突破することはできなかった。シリア軍は戦車260その他車輌500<ref name="Dunstan59" />をこの場所で失った。
 
これと対照的に、ゴラン高原中部・南部の攻撃を担当した第9、第5歩兵師団の攻撃は比較的順調に進んだ。こちらの守備を担当したイスラエル軍の{{仮リンク|第188機甲旅団 (イスラエル国防軍)|en|188th Armored Brigade|label=第188機甲旅団}}(戦車定数72輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P11.</ref>)は第7機甲旅団と同様、停戦ライン上てシリア軍の戦車を迎え撃ったが、担当正面が広すぎ(停戦ラインは全長65Km<ref name="高井47" />だが、うち40Kmを第188機甲旅団が担当した<ref>高井「ゴランの激戦」P56。</ref>)、6日夕方にはシリア軍の450輌に対して第188機甲旅団の稼働戦車は15輌<ref>Dunstan,Gerrand"The Yom Kippur War 1973 (1)"P43.</ref>にまで低下、シリア軍に包囲された上(夜間にシリア軍の間隔を縫って退却した)、翌7日には第188機甲旅団の旅団長、副旅団長、作戦参謀が三人とも戦死するという事態が起こった。最終的に将校の9割が死傷した<ref>葛原「機甲戦の理論と歴史」P150。</ref>第188機甲旅団にシリア軍を止めるすべはなく、シリア軍は後方の第1戦車師団も投入してゴラン南部でイスラエル軍の防衛線を突破した。
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==== ゴラン高原方面 ====
[[File:Syrian Tank Blocked From Attacking an IDF Post - Flickr - Israel Defense Forces.jpg|thumb|250px|イスラエル軍の前進指揮所ナファク近郊において撃破されたシリア軍のT-55戦車。]]
10月11日、イスラエル軍は再編成ののちゴラン高原北部からシリア領への逆侵攻を開始した。シリア軍や新たに参戦したイラク・ヨルダン軍などの抵抗を受けながらも、イスラエル軍はシリアの首都ダマスカスを長距離砲の射程に収められる位置まで進軍したが、それ以上ダマスカスへの進撃は中止された。アラブ側が必死の抵抗をしただけでなく、'''ダマスカスを陥落させるとソ連軍が参戦する'''との警告がアメリカよりもたらされたからとされている。
 
==== シナイ半島方面 ====
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''[[:en:Operation Nickel Grass|ニッケル・グラス作戦]]も参照のこと。''
 
イスラエル・アラブ両陣営は激しいにより、戦車・航空機・弾薬を急激に消耗していった。それぞれの陣営の兵器のおもなクライアントであったアメリカ・ソ連にとって「自国製兵器で編成された軍隊」が敗北することは中東プレゼンスの弱体化にもつながる一大事となるため、ソ連は9日からエジプト・シリア両国に、アメリカは14日からイスラエルに対し大規模な軍需物資輸送作戦を開始した。最終的にアメリカが作戦機800機、戦車600輌を含む約2.2 - 2.8万トン、ソ連が作戦機200機、戦車1000輌を含む約1.5 - 6.4万トン<ref>松村、『新・戦争学』、p161。</ref><ref>ラビノビッチ、滝川『ヨムキプール戦争全史』、p496。</ref>の軍需物資を供給した。これらの物資が両軍の損害を完全に埋め合わせることはなかったものの、イスラエル・アラブ両陣営にとって「超大国が支援している」ということの心理的・政治的効果は大きかった。
 
エジプト・シリア以外のアラブ諸国も戦争に協力した。[[イラク]]・[[ヨルダン]]はそれぞれ2個独立旅団、2個機甲師団をゴラン高原に派遣した。また[[モロッコ]]・[[サウジアラビア]]・[[スーダン]]の部隊がゴラン高原に、シナイ半島では[[アルジェリア]]・[[リビア]]・[[モロッコ]]・PLO・[[クウェート]]・[[チュニジア]]<ref>Hussain, Hamid (November 2002) "Opinion: The Fourth round — A Critical Review of 1973 Arab-Israeli War A Critical Review of 1973 Arab-Israeli War" Defence Journal.</ref><ref>O'Ballance, Edgar (November 1996). No Victor, No Vanquished: the Yom Kippur War. Presidio Press. ISBN 978-0-89141-615-9. p. 122.</ref>の部隊が戦闘に加入したほか、パキスタンの空軍<ref>Bidanda M. Chengappa (1 January 2004). Pakistan: Islamisation Army And Foreign Policy. APH Publishing. p. 42. ISBN 978-81-7648-548-7. </ref><ref>Simon Dunstan (20 April 2003). The Yom Kippur War 1973 (2): The Sinai. Osprey Publishing. p. 39. ISBN 978-1-84176-221-0.</ref><ref>P. R. Kumaraswamy (11 January 2013). Revisiting the Yom Kippur War. Routledge. p. 75. ISBN 978-1-136-32895-4. </ref>やレバノンの対空レーダー部隊がシリアに派兵され<ref>[http://www.jewishvirtuallibrary.org/jsource/History/73_War.html " The Yom Kippur War"]. Jewishvirtuallibrary.org. October 6, 1973.</ref>、[[キューバ]]も戦車やヘリコプターなどで構成された部隊をシリアにおくり<ref>Perez, Cuba, Between Reform and Revolution, pp. 377–379. Gott, Cuba, A New History, p. 280</ref><ref>Bourne, Peter G. (1986). Fidel: A Biography of Fidel Castro. New York: Dodd, Mead & Company</ref>、[[北朝鮮]]のパイロットはエジプトの航空基地の防空任務に就いていた。<ref>ラビノビッチ、滝川『ヨムキプール戦争全史』、p471。</ref>