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日本では、[[縄文時代]]後期遺跡から[[弥生時代]]中期にかけての住居跡から、獣肉・魚・貝類をはじめとする食材が、塩蔵と自然[[発酵]]によって醤と同様の状態となった遺物として発掘されている。[[5世紀]]頃の黒豆を用いた醤の作り方が、現存する中国最古の農業書『[[斉民要術]]』の中に詳細に述べられており、醤の作り方が同時期に日本にも伝来したと考えられている。古代になると、[[701年]](大宝元年)の[[大宝律令]]に官職名として「主醤」(ひしおのつかさ)という記載が現れる。なおこの官職は、宮中の食事を取り扱う[[大膳職]]にて醤を専門に扱う一部署であった。主醤が扱ったものには、当時「未醤」(みさう・みしゃう)と書いた(現代の)[[味噌]]も含まれていた。このことから味噌も醤の仲間とされていたことがわかる。
 
醤の日本語の訓読みである「ひしお」の用例は平安時代の[[903年]](延喜3年)に遡る。同年の『[[和名抄]]』(日本最古の辞書)において、醤の和名に「'''比之保'''」(ひしほ)が当てられている。また[[927年]](延長5年)に公布された『[[延喜式]]』には、醤の醸造例が記され、「京の東市に醤を売る店51軒、西市に未醤を売る店32軒」との旨の記述もある。さらに[[1116年]](承久4年)の太政大臣[[藤原忠通]]の年賀の献立を記した『[[類聚雑要抄]]』(るいじゅうぞうようしょう)には、具体的な図による描写も現われ、そこには塩、酒、酢とともに小皿に入れられたものが『四種器』(よぐさもの)と記されている。
 
なお、室町時代に醤は「漿醤」となって、それに「シヤウユ」との訓読みが当てられた。