「広瀬氏」の版間の差分

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広瀬兵庫助康親は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]であり、[[鎌倉時代]]から代々続く美濃国広瀬郷(現在の岐阜県揖斐川郡揖斐川町坂内広瀬)の地方豪族である。家紋は下り藤。
 
康親の父・広瀬康則は、美濃国広瀬郷広瀬村第17代広瀬城・城主である。康則は、家臣との不和により1572年6月に[[織田信長]]の家臣・[[稲葉一鉄]](第3代将軍[[徳川家光]]の母・春日局の祖父)に攻められ、広瀬城城主の康則は42歳で討死・落城した<ref>https://blogs.yahoo.co.jp/pvhu3515</ref>。このため、初代城主の広瀬康述から続いた372年の広瀬一族の幕が一旦閉じることとなった。次期城主の候補者であった康親は武家再興のため、飛騨国[[広瀬城 (飛騨国)|広瀬城]]へ修行に出た。その間、約2年間を過ごし、康親はそこで広瀬兵庫助(兵庫頭)と名乗った。1574年には[[豊臣秀吉]]の[[長浜城 (近江国)|長浜城]]築城に協力した。広瀬兵庫助には兄弟がおり、長男・康宗は左門九郎と名を変え、弟・久助とともに1575年に美濃国広瀬郷へ帰郷した。
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|人物=[[広瀬郷左衛門景房]]<br/>[[広瀬将監正直]]
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}}[[広瀬景房|広瀬郷左衛門景房]]は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]である家紋は不明。

上記の広瀬兵庫助康親の先祖である初代当主・広瀬康述の子孫で、第14代当主・康平の弟の広瀬安周(別名・安近)は、山梨県(甲斐国)へ移った。広瀬郷左衛門景房はこの末裔と伝えられる。家紋は不明
 
景房は、甲斐石和の[[郷士]]で、最初は武田信玄に仕え、[[板垣信方]]や[[山県昌景]]らの部隊に配属された。信玄時代の初期から仕えた剛勇の士で、信玄から「軽薄なる事なき勇士なり」と言わしめた。[[天正]]10年([[1582年]])3月の[[織田信長]]の[[甲州征伐]]で[[甲斐国|甲斐]][[武田氏|武田家]]が滅亡すると[[徳川家康]]に召しだされ、[[井伊直政]]の部隊に配属された。江戸時代は、彦根藩士となった。同藩に広瀬清兵衛家<ref name=":1">彦根藩史料叢書 侍中由緒帳 巻3</ref>、広瀬茂兵衛家<ref>彦根藩史料叢書 侍中由緒帳 巻14</ref>、広瀬助之進家<ref>彦根藩史料叢書 侍中由緒帳 巻7</ref>がいた。家康からもその剛勇を認められ、井伊の赤備えにおいて広瀬と三科のみは旗指物は赤でなくとも良いと許され、白にした広瀬は赤備えの中で一際目立ったと伝わる。また、常に徳川軍の先鋒として最前線に出る直政に無理をするなと自重を促したと伝わる。[[小牧・長久手の戦い]]や[[小田原征伐]]に従軍。1500石を知行する。[[関ヶ原の戦い]]では[[上野国|上野]][[高崎城]]の留守居役を務めた。慶長14年(1609年)に徳川家康が名古屋に居城を築城をすること決める際に、甲州士美濃守だった景房は、「ふけ田(深田)に堀を深くほり候へば、水なかへ抜け、田干あがるもの也」と言ったことにより名古屋城の場所を決定することとなり、翌年の慶長15年(1610年)2月27日より名古屋城の築城は開始されたとされる<ref>披沙揀金 : 徳川家康公逸話集</ref>。のちに養子の将義に[[家督]]を譲り、隠居料300石を与えられた<ref name=":1" />。
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先祖は、[[甲斐国]][[武田氏]]重臣の[[板垣氏]]または[[山県氏]]家臣、[[広瀬景房|広瀬郷左衛門尉景房]]の弟・広瀬将監正直とされる家紋は丸に酢漿草。

初代広瀬五左衛門貞昌は、[[1673年]](延宝元年)に[[博多]]から[[天領]]であった[[豊後国]][[日田郡|日田]](現在の[[大分県]][[日田市]])に移り、[[両替商|掛屋]]「堺屋」を開業。後に屋号を「博多屋」とした。家紋は丸に酢漿草。 
 
[[咸宜園]]を開いた淡窓をはじめ、その子孫に、[[儒学者]]、[[俳人]]が多く出た。月化・桃秋(三郎右衛門の号)・淡窓・秋子・南陔(久兵衛の号)・旭荘・青邨・林外は、広瀬八賢と称される。また、淡窓のあとを継いだ旭荘・青邨・林外は、三広と呼ばれる。