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司馬師は楽嘉に別働隊を送り敵を誘わせると共に、自らも楽嘉に軍を進めた。文欽は楽嘉方面の迎撃にあたった。子の文鴦が楽嘉で奮戦し、司馬師を追い詰める活躍をしたが(『魏氏春秋』)、文欽自身は戦線に間に合わず敗れ、司馬師の大軍の前に逃走した。元曹爽部下の[[尹大目]]が、陣中での司馬師の病状が悪化した事を文欽に伝えようとしたが、文欽はそれに気付く事ができなかった(『魏末伝』)。文欽は、寿春を狙って北上していた呉の[[孫峻]]・[[呂拠]]らの軍と合流し寿春入りを目指したが、寿春が既に諸葛誕に占領されていたため失敗、そのまま呉へ亡命した(『三国志』魏志「諸葛誕伝」)。
 
文欽は呉においても、心を抑え他者に遜る事ができなかった為、朱異を始めとする諸将から常に憎悪されていた。但し、実権を握る孫峻には信任され、仮節・鎮北[[大将軍]]・[[幽州]][[刺史|牧]]・譙侯に任命された。[[256年]]、孫峻に北伐を勧め、呂拠・朱異・[[劉]]・[[唐咨]]らと共に先遣隊を率いて北上した。孫峻が急死し[[孫チン|孫綝]]が継ぐと、これに不満な呂拠は非難の上奏をした。文欽は一度はこれに同調したが、孫綝から呂拠追討の命令を受けるとこれに応じ、呂拠を滅ぼした。
 
[[257年]]、揚州の都督に復帰していた諸葛誕が[[司馬昭]]を討つため反乱を起こすと、呉への臣従を表明した諸葛誕の援軍要請を受けて、[[全端]]・[[全懌]]・唐咨とともに諸葛誕の援軍に赴いた。文欽らは魏軍の包囲を突破し、諸葛誕と共に寿春城に立て籠もった。しかし司馬昭の包囲陣が二重三重に取り囲んだため、呉からの後続の援軍が途絶え、城中に孤立する事となった。籠城は翌年になっても続いた。文欽らは攻城用の兵器を持ち出してまで、包囲を脱しようとしたが果たせなかった。また、そうこうしている内に城内の食糧が尽きてしまった。