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== 経歴 ==
=== 芸能界入り前から、おニャン子クラブ卒業まで ===
高校在学中の[[1984年]]、第3回[[ミス・セブンティーンコンテスト]](過去最大応募総数18万325人)中国地区代表に選出され全国大会に出場(同コンテストの同期には[[渡辺美里]]・[[工藤静香]]・[[渡辺満里奈]]などがいる)<ref name="東スポ34">。[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/33678/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載3〉下]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/34426/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載4〉上]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/34426/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載4〉下]</ref><ref name="kokuraireki">別冊宝島2611『80年代アイドルcollection』p.6-9.</ref>。高校の友達がコンテストに写真を送るから一緒に参加してはどうかと勧めたことが応募のきっかけである<ref name="kokuraireki"/>。
 
入賞はできなかったが、大会終了後に[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]からレコード会社対抗運動会に「運動会要員」として出場しないかと声をかけられる<ref name="東スポ34"/><ref name="kokuraireki"/>。これは[[陸上競技|陸上短距離走]]の[[全国高等学校総合体育大会|インターハイ]]選手であった国生に[[ゼッケン]]の社名をアピールしてもらいたいという狙いであった<ref name="東スポ34"/>。レコード会社対抗運動会には二度出場し、運動神経の良さを売りにしていた[[石川秀美]]を追い抜いたこともある。
 
CBSソニーからは正式にスカウトされたわけではなかったので<ref name="東スポ5">[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35107/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載5〉上]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35107/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載5〉下]</ref>、高校卒業後は[[資生堂]]の美容部員に就職が内定しており、広島の[[デパート]]の[[化粧品]]売り場に立つ予定だった<ref name="kokuraireki"/><ref name="東スポ34"/><ref name="東スポ5"/>。しかし、先のCBSソニー担当者による薦めで[[1985年]]2月に[[フジテレビジョン|フジテレビ]]で放送される、深夜番組『[[オールナイトフジ]]』の特別番組『オールナイトフジ 女子高生スペシャル』に出演<ref name="東スポ5"/>。この特番は同年4月1日から同局で始める新番組『[[夕やけニャンニャン]]』のパイロット番組であり、番組の中でアシスタント兼マスコットとして結成される女性アイドルグループ・[[おニャン子クラブ]]のメンバー選定も含まれていて、CBSソニー担当者からはそのテストを設けられての出演でもあった。何十人にも及ぶ同年代の娘たちが出演していた特番の中で行った“美少女コンテスト”において優勝するなどして、見事その関門をクリア。それにより、地元での就職は取り止めて、芸能界入りするために高校を卒業するのと同時に単身上京した<ref name="kokuraireki"/><ref name="東スポ5"/><ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35681/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載6〉上]</ref>。なお、高校時代を[[広島県]]で過ごしたため、当時は「広島出身」としていた(現在は「鹿児島出身」としている)。所属事務所は、CBSソニー運営のエイプリル・ミュージック(現在のソニー・ミュージックアーティスツ)。そして、'''おニャン子クラブ会員番号8番'''として『夕やけニャンニャン』開始とともに芸能界デビューした<ref name="Sony"/>。
 
おニャン子クラブの初期メンバーは都会育ちの子が多く、田舎育ちは国生だけであった<ref name="東スポ78">[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35683/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載7〉上]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35683/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載7〉下]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35686/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉上]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35686/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下]</ref>。また素人集団というおニャン子クラブのイメージだが<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/37581/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載11〉上]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/37581/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載11〉]</ref>、実際は[[子役]]上がりの子も多く、完全な素人は国生だけで当初はメンバー内で孤立したという<ref name="東スポ78"/>。学生時代は陸上部のキャプテンを務めていたことに加え、『夕やけニャンニャン』開始時には既に学生ではなかったことから、夕方5時放送開始の番組には日中のリハーサルから連日参加し、陸上部のキャプテン時代とリハーサルで得た体験を交えつつ、自発的に歳下の学生メンバーに指導するなど、自然とおニャン子クラブのリーダー格となっていった<ref name="kokuraireki"/>。『夕やけニャンニャン』放送開始から三ヶ月後の7月、おニャン子クラブは[[ポニーキャニオン]]から出したデビュー曲「[[セーラー服を脱がさないで]]」でブレイクを果たすも、この当時のおニャン子クラブにおけるパブリックイメージは、「セーラー服を脱がさないで」フロントヴォーカルの4人である[[新田恵利]]、[[中島美春]]、[[福永恵規]]、[[内海和子]]に集中していたため、4人の後ろでその他大勢の一員として踊っているだけの国生がおニャン子クラブのメンバーであることは世間一般的にはまだまだ知られてなかった。おニャン子クラブからの第二弾として9月にCBSソニーからソロデビューした[[河合その子]]のキャンペーンに同行した以外は特に目立ったソロ活動のない状態が続いた。
 
この当時について、「ソロで出れるのか、グループで出れるのか、それとも出れないのか、とてもピリピリしていた。」「先にソロデビューを果たしている新田恵利や河合その子を応援したいという気持ちと嫉妬心とが入り混じり、女の子ならではのとても複雑な気持ちで見ていた。」と振り返っている。
 
混沌とした気持ちの1985年から抜けた翌[[1986年]]になってようやく国生にも運が開き、[[2月1日]]に、国生さゆりwithおニャン子クラブ(国生のサブボーカルとして、[[白石麻子]]・[[渡辺美奈代]]がつく)名義のもと『[[バレンタイン・キッス]]』でソロデビュー。おニャン子クラブが大ブームだった中で同曲は約30万枚のヒットとなり、現在でも[[バレンタインデー|バレンタイン]]シーズンには[[バレンタインデー関連楽曲一覧|定番の曲]]となっている。しかし、おニャン子クラブ関連の曲がオリコン1位が当たり前だった状況の中で最高位2位という結果に甘んじる。新田や河合は1位を獲得しているだけに「二人には負けたくなかった」と、当時の悔しい心境を語っている。また、2017年の別冊宝島のインタビューでは、当時そもそもデビューできると思っていなかったといい、サブボーカルが付いたのも1人では難しかったという関係者の判断による<ref name="kokuraireki"/>
 
ソロデビューに合わせて『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのスタッフらは、国生を積極的に推すようになり、歌手活動以外にも『[[スケバン刑事II 少女鉄仮面伝説]]』へのメインゲスト出演や、『[[月曜ドラマランド]]』などおニャン子クラブ主体のドラマにも主役格で出演させたことで瞬く間に中心メンバーへと躍り出た。さらに、[[カネボウ化粧品|カネボウ]]秋のキャンペーンガールに選ばれるなどの<!--おニャン子のなかで突出した-->活躍をみせた。この頃から「芯の強さ・気の強さ」を前面に出すようになり、おニャン子クラブのリーダーとしてのイメージも定着してゆく。国生の[[親衛隊 (アイドル)|親衛隊]]は[[つなぎ]]姿の若者が多かった<ref>[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/46693/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載20〉]、[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/35686/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載8〉下]</ref>。
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[[1987年]]3月、『夕やけニャンニャン』およびおニャン子クラブを卒業。番組最後のあいさつで「私はおニャン子の想い出を缶詰に入れ、冷蔵庫に入れて保存しておきたいです」という弁を述べたが、後にこの時のVTRを観た[[タモリ]]から「缶詰に入れたら、何も冷蔵庫に入れる必要はないじゃないか」という突っ込みを入れられる。
 
卒業時、『夕やけニャンニャン』とおニャン子クラブのブームは峠を過ぎていたが、ソロとしての国生さゆりはアイドル絶頂期にあり、卒業直後には初主演映画『[[いとしのエリー (漫画)|いとしのエリー]]』が劇場公開。三浦友和と共演できたことは嬉しかったといい、山口百恵と三浦友和が出演していたアーモンドチョコレートの販促用下敷きを「今でも実家で大切にしてます」と話した思い出を後に語っている<ref name="kokuraireki"/>。また同年5月に『[[キスより簡単]]』で連続ドラマ初主演を果たすなど、卒業後もその活動の勢いは続いた。
 
そして、同年8月の『夕やけニャンニャン』番組終了時まで他の卒業したメンバーらと幾度もゲスト出演し、おニャン子クラブの解散コンサートにも出演するなど、実質的には最後まで関わっていた。
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== 人物 ==
1980年代のアイドルの中で、中森明菜、小泉今日子、斉藤由貴に影響を受けていた。特に斎藤に関してはカルピスのCMで、セーラー服に赤いストールを巻いて雪の中にいるというシーンが綺麗に見え、デビュー前であった国生は非常に感銘を受けたという<ref name="kokuraireki"/>。1980年代のアイドル業界については2017年の取材で「今は、何かをやろうとすると、その予算で売上げが立てられるか、最初に聞かれます。でも80年代って『それ面白いね』でやってしまう。後からいろいろくっついてきて、後の後でお金の話が出てくる。なんでも面白がってやった時代」と振り返っており、さらに「今は、どうしても時間の制約が出てくるので、私は懇切丁寧に教えてもらった世代だなと思います」と感謝の意を述べている<ref name="kokuraireki"/>。
 
陸上短距離走のインターハイ広島県代表選手であった<ref name="東スポ2-2">[http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/33444/2/ 国生さゆりのニャンたま事件簿〈連載2〉下]</ref>。100メートルのベストタイムは12秒8<ref name="東スポ2-2"/>。「12.8秒。これが私の青春です」と1987年3月のおニャン子クラブの卒業式の記念プロモにて自らが語るほどであった。また1986年2月、[[TBSテレビ|TBS系]]『[[ザ・ベストテン]]』において(デビュー曲『バレンタイン・キッス』がランクインした時)司会の[[小西博之]]<ref>小西自身は、[[サイクリング]]、[[ボクシング]]、[[スキー]]、[[野球]]、[[乗馬]]、[[合気道]]と言ったスポーツの趣味や、特技を持っている。</ref> と100メートル走の競走という企画があった(事前に競技場で収録したものを流す)が、この時は少し差がついて完敗だったが、それでも本人は遺憾無く実力を発揮していた様だった。1995年には[[フローレンス・ジョイナー]]との『世紀の100M対決!』を繰り広げた。