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{{存命人物の出典明記|date=2011年7月}}
'''小田島 雄志'''(おだしま ゆうし、[[1930年]]([[昭和]]5年)[[12月18日]] - )は、日本の[[英文学者]]、演劇評論家。[[東京大学]]名誉教授、[[東京芸術劇場]]名誉館長。[[日本演劇協会]](理事) <ref>日外アソシエーツ現代人物情報より</ref>。豊島区芸術顧問<ref>朝日新聞人物データベースより</ref>。
 
姉の[[阿部明子]](あかし)は[[東京家政大学]]名誉教授<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.21</ref>。妹の松村紀代子は、文藝春秋の編集者をへて、エッセイスト<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.21</ref>。次男の[[小田島恒志]]も英文学者、[[早大]]教授<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.94</ref>。恒志の妻の[[小田島則子]]も英文学者、翻訳家<ref>『ぼくは人生の観客です』(日本経済新聞社)P.94</ref>。
 
 
== 生い立ち ==
1930年(昭和5年)[[満州国]]・[[奉天市]](現[[瀋陽市]])生まれ。旧制[[東京都立大森高等学校|東京都立大森中学校]]から[[福岡高等学校 (旧制)]]を経て[[東京大学]]英文科卒。同学大学院修士課程修了。父興三は[[南満州鉄道]]勤務。母都子(とし)は[[裏千家]]のお茶の先生。姉に[[阿部明子]](あかし)。妹紀代子(松村紀代子:英文学者・エッセイスト)。5歳のとき新京(現[[長春]])に移転して育つ
 
新京第一中学校在籍中に、ソ満国境を超えて[[ソビエト連邦軍|ソ連軍]]南下の報に8月14日[[新京]]から[[奉天]]へ一時避難したが、父興三の判断で[[満州国]]首都の新京へ後戻り15日夕刻新京に着いて終戦を知った。
 
終戦の翌年9月、[[葫蘆島市|葫蘆島]](ころとう)から博多へ[[引き揚げ]]([[葫芦島在留日本人大送還]])、列車で東京へ。広島を通るときは窓が目隠しされたという。
 
引揚直後は[[鶴見]]の親戚に仮寓。大森中4年に編入。翌1946年に引き揚げして鶴見に住み、旧制[[東京都立大森高等学校|東京都立大森中学校]]に転入。
 
[[1948年]](昭和23年)、旧制福岡高校文甲に入学。
 
1948年、佐世保に転居。同年、旧制福岡高校文甲に入学。[[1949年]](昭和24年)7月、新制東大文Ⅱに入学。父興三のすすめにしたがい文Ⅱを選択。2年生の時にたまたま入手した[[坪内逍遥]]訳『シェイクスピア全集』や、続いて読んだ『[[ハムレット]]』の原書に感動し、[[シェイクスピア]]研究を志すようになった。
 
1953年、[[東京大学]]文学部英文学科卒業<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より</ref>。1956年、東京大学大学院人文科学研究科英文学専攻修士課程修了<ref>日外アソシエーツ現代人物情報より</ref>。
 
== 経歴 ==
1956年~1959年、[[国学院大学]]専任講師、1959年~1961年[[津田塾大学]]専任講師、1961年~1963年、[[東京大学]]教養学部専任講師]]、1963年に同助教授、1978年に同教授<ref>朝日新聞人物データベースより</ref>。1981年から、東京大学大学院比較文学兼任担当(外国文学受容史担当)<ref>読売人物データベースより</ref>。1991年に定年して、東京大学名誉教授<ref>朝日新聞人物データベースより</ref>。
 
1991年から[[文京女子短期大学]]教授、1993年から[[東京芸術劇場]]館長兼務、2002年に文京女子短期大学は[[文京学院大学]]短期大学に名称変更して同教授。2004年に同客員教授<ref>朝日新聞人物データベースより</ref>。2007年、東京芸術劇場名誉館長<ref>読売人物データベースより</ref>。