「林伊佐緒」の版間の差分

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[[1939年]]には[[講談社]]が募集した「[[出征兵士を送る歌]]」の作曲部門に当選したのを皮切りに、大日本産業報告会制定の「産業戦士の歌」、[[読売新聞社]]制定の「世紀の若人」や、「十億の進軍」「少年兵を送る歌」といった作曲公募にも第1等に当選して名を上げた。他にも「[[男なら (軍歌)|男なら]]」「くろがねの力」(コロムビアから出されたヒット盤とは別曲)なども作曲し(時には自ら歌い)、ヒットさせた。
 
戦後も[[1950年]]には「ダンスパーティーの夜」、[[1954年]]「真室川ブギ」、[[1955年]]「高原の宿」、[[1957年]]「そっとこのまま」を大ヒットさせ、戦前~戦中以上の活躍をした。昭和30年代はキング専属の作曲家としての活動も目立ち、[[三橋美智也]]には「[[リンゴ村から]]」「リンゴ花咲く故郷へ」「母恋吹雪」、[[春日八郎]]には「海猫の啼く波止場」「[[長崎の女]]」「ロザリオの島」などを書き、大ヒットさせた。「[[てなもんや三度笠]]」の主題歌も林の作曲である。昭和40年代に起こった懐メロブームでは、地方の小さな会からテレビ・ラジオ番組まで大小隔てなくこまめに出演し、再び歌手としての面もクローズアップされた。
 
スケールの大きな堂々たる歌唱で知られ、その声量は[[1970年代]]の懐メロ番組で「出征兵士を送る歌」を歌った時に、マイクから少し離れて歌っているのにもかかわらず、バックコーラスを圧倒していたというエピソードがある。また[[1972年]]には戦後27年間も[[グアム]]島のジャングルに潜み続けて話題となった[[横井庄一]]元[[軍曹]]の帰国を歓迎する歌を発表したこともある。