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南北朝時代の内乱では[[足利尊氏]]方につき、後醍醐天皇の信任を受け権勢を誇っていた[[文観]]を排除する。同年2月尊氏が九州に走った際にはそれに従い、陣中の群議にあたった。また[[持明院統]]([[北朝 (日本)|北朝]])の光厳上皇の[[院宣]]と錦旗を尊氏に伝える役割を果たし、室町時代の[[足利将軍家]]と[[日野家]]の関係の端緒となる。[[1336年]]([[建武 (日本)|建武]]3年/[[延元]]元年)6月、権大僧正に任じられて醍醐寺座主となり、示寂するまで22年間当職を占めた。同年に[[東寺長者]]、[[根来寺]]大伝法院検校、[[若宮八幡宮社|六条八幡宮]]別当などの顕職に相次いで[[補任]]され、寺院社会で大きな影響力をもつようになった。
 
尊氏及び北朝3代([[光明天皇|光明]]・[[崇光天皇|崇光]]・[[後光厳天皇|後光厳]])の[[護持僧]]として権勢をふるった。[[醍醐寺]]に食邑として6万石を寄進されて伽藍を整備し、さらに醍醐寺の院家であった[[三宝院]]を再興、新たに造営・寄進されてその院主となった。[[1342年]]([[康永]]元年/興国3年)法務大僧正に就任。[[1350年]]([[観応]]元年/[[正平 (日本)|正平]]5年)東寺長者の職を辞して尊氏の九州鎮定に従っている。また、[[観応の擾乱]]においても尊氏に従って、足利直義方にあった実相院の増基を退けて武家護持僧の筆頭に就いた。尊氏とは厚い信頼関係にあり、その緊密な関係が伺える手紙や願文が『醍醐寺文書』に含まれている。また、醍醐寺に残る「[[理趣経]]」([[重要文化財]])は賢俊の[[中陰法要|四十九日供養]]の際、尊氏自らが書写したものである。他の賢俊にまつわる品として、『三宝院賢俊像』(醍醐寺所蔵)や、『三宝院賢俊僧正日記』がある。
 
しかし、当時の醍醐寺の内紛状態の中で傍流に属していた賢俊が幕府・北朝を支持を受けて、醍醐寺ひいては仏教界を掌握できたのは一時的な事であり、彼が没するとたちまち三宝院は力を失って動揺することになった。[[1374年]]([[応安]]7年/[[文中]]3年)には、彼の後継者である[[光済]]が[[興福寺]]の[[強訴]]で配流されている。その後[[足利義満]]が[[1379年]]([[康暦]]元年/[[天授 (日本)|天授]]5年)に武家護持僧の管領役を三宝院に一任するなどの庇護策を行うことによって大きく発展することになる。