「朝比奈泰朝」の版間の差分

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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 朝比奈泰朝
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] ‐ [[安土桃山時代]]
| 生誕 = [[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])?<ref group="注釈">『戦国大名家臣団事典』・『戦国人名辞典』は、ともに生年を不詳としている。</ref>
| 死没 = 不明
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 戒名神号 =
| 墓所戒名 =
| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[京職|左京亮]]・[[備中国|備中]][[国司|守]](受領名)
| 主君 = [[今川義元]]、[[今川氏真|氏真]]
| 藩 =
| 氏族 = [[朝比奈氏]]
| 父母 = 父:[[朝比奈泰能]]
| 兄弟 =
| 妻 =
| 子 = [[朝比奈泰基|泰基]]
| 特記事項 =
}}
 
'''朝比奈 泰朝'''(あさひな やすとも)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[今川氏]]の家臣。[[朝比奈泰能]]の子。[[掛川城]]主。
 
== 生涯 ==
[[朝比奈泰能]]の子として誕生。生年は一説に[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])とされる。生母について明記した史料はないが、父・泰能の正室は[[中御門宣秀]]の娘で、[[寿桂尼]]([[今川義元]]の母)の姪にあたる。こうした縁から父とともに[[山科言継]]らとの交流も深く、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])には言継から「[[三千院|梶井宮]]之御筆[[百人一首]]」を与えられている。
 
父の死後に[[家督]]を継承し、備中守を称する。[[永禄]]元年([[1558年]])には[[駿東郡]]<ref>現・[[沼津市]]。</ref>の[[霊山寺 (沼津市)|霊山寺]]を再興している。永禄3年([[1560年]])には、今川義元の[[尾張国]]侵攻で[[井伊直盛]]とともに[[織田氏]]の[[鷲津砦]]を攻略。窮地にあった[[大高城]]を救ったが、後続本隊の義元が[[桶狭間の戦い]]で討死。やむなく放棄し、撤退した。
 
義元の横死後、[[三河国]]・[[遠江国]]の今川領内では動揺が拡大、離反する諸将もある中で、[[今川氏真]]を支える姿勢を貫いた。永禄5年([[1562年]])3月には、[[小野道好]]の讒言により謀反の疑いのかかった[[井伊直親]]を氏真の命により殺害している<ref>千葉志「相次ぐ一族・家臣の死と、直虎登場の背景とは?」(歴史と文化の研究所編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年、47頁)</ref>。永禄期には[[三浦氏満]]とともに[[越後国]]の[[上杉氏]]との交渉に当たった。
 
永禄11年([[1568年]])12月、[[甲斐国]]の[[武田信玄]]が同盟を一方的に破棄して[[駿河国]]に侵攻。それによって氏真が駿河を追われると、泰朝は氏真を[[掛川城]]に迎えて保護した。同年末には三河の[[徳川家康]]が遠江に攻め寄せている。家康は[[浜松城|曳馬城]]を陥落させるなど順調に遠州を制圧し、掛川城を攻囲した。こうした状況の下で、今川氏の重臣の大半は氏真を見限って[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]や[[徳川氏]]に寝返ったが、泰朝は今川氏に最後まで忠義を尽くしている。
 
掛川城を守る泰朝は5ヶ月に亘って奮戦したが、援軍の見込めぬ中での戦いには限りがあった。永禄12年([[1569年]])5月17日、氏真は開城要求を受け入れ、[[伊豆国]]に退去することとなったが、この時も泰朝は氏真に供奉し、伊豆へ同行している。氏真は北条氏の庇護の下に入ったが、泰朝は[[上杉謙信]]の家臣・[[山吉氏]]に援助を要請するなどの活動を行っている。[[元亀]]2年([[1571年]])12月、氏真は家康を頼って[[浜松城]]に出向くものの、泰朝はこれには従わなかった。