「中国文学」の版間の差分

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一方、七子派の擬古主義に反対する流派も現れた。[[王慎中]]・[[唐順之]]・[[帰有光]]・[[茅坤]]らは宋儒の「文道合一」の主張に共感し、「文必秦漢、詩必盛唐」の主張を斥けた。[[唐宋八大家]]を顕彰し、[[唐宋派]]と呼ばれる。[[万暦]]年間には[[李贄]](李卓吾)が現れて、復古模擬の文学に反対し、創作は古典的な規範に束縛されず、自らの心の発抒にもとづくべきだと主張した。李贄に師事した[[袁宗道]]・[[袁宏道]]・[[袁中道]]三兄弟(三袁という)ら[[公安派]]は文学にはその時代に特徴的なものであるべきとして復古主義を斥け、自己の胸臆にある[[性霊]]の発抒こそが真詩であるとした。このような革新的な主張も当時の擬古主義の大勢を崩すにはいたらなかったが、[[鍾惺]]・[[譚元春]]ら[[竟陵派]]の自由奔放な文学批評の活動が人々に受け入れられ、明朝末期に清新な文風が生まれることになった。
 
明代には[[白話小説]]が発展し、「[[三言六十家小説]]」「[[三言二拍]]」と呼ばれるなどの短編小説集が編まれ、広範な題材を扱った。また[[明]]の時代には[[長編小説]]が現れる。有名なものに『[[水滸伝]]』『[[三国志演義]]』『[[西遊記]] 』『[[金瓶梅]]』があり、まとめて[[四大奇書]]と呼ばれる。
 
=== 清代 ===