「ジョージ・フォアマン」の版間の差分

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[[1995年]]3月、WBAから指名された[[トニー・タッカー]]との対戦を拒否し、WBAタイトルを剥奪される。同年4月、[[アクセル・シュルツ]]を破り、IBF王座防衛とともに[[世界ボクシング連合|WBU]]世界ヘビー級タイトルを獲得。同年7月、IBFから指名されたシュルツとの再戦を拒否し、IBFタイトルも剥奪される。
 
[[1996年]]11月3日、[[東京ベイNKホール]]でクロウフォード・グリムスリーと対戦し([[東日本ボクシング協会]]代表経験者[[木村七郎]]がプロモーターライセンス名義貸しせず[[日本ボクシングコミッション|JBC]]非公認試合・[[日本IBF]]協力)、WBU王座防衛とともに[[国際ボクシング協会 (IBA)|IBA]]世界ヘビー級タイトルを獲得(その後、IBAタイトルを返上)、TBSで放送され解説は[[二宮清純]]と[[アントニオ猪木]]が務めた。[[1997年]]4月26日、ルー・サバレーセを破りWBU王座を防衛するがこれも返上する。
 
1997年11月22日、WBC世界ヘビー級王者[[レノックス・ルイス]]への挑戦権をかけて[[シャノン・ブリッグス]]と対戦し、12R判定負け。以後、リングから遠ざかるが、正式な引退表明はしていない。
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* IBA世界ヘビー級王座
* WBU世界ヘビー級王座
* 第5代[[世界ボクシング協会|WBA]]世界ヘビー級王座(1度目は防衛2度、2度目は防衛0度)
* 第4代[[世界ボクシング評議会|WBC]]世界ヘビー級王座(防衛2度)
* [[国際ボクシング連盟|IBF]]第23代WBA世界ヘビー級王座(防衛10度)
* 第11代[[国際ボクシング連盟|IBF]]世界ヘビー級王座(防衛1度)
 
== エピソード ==
*1968年のメキシコ五輪で金メダルを獲得した時、フォアマンは[[星条旗]]の小旗を振って喜びを表した。しかし、当時のアメリカでは[[黒人差別]]への抗議活動がスポーツ分野にも及んでおり、男子200m走の表彰式では金・銅メダルの[[トミー・スミス]]と銅メダルの[[ジョン・カーロス]]が黒い手袋をつけた拳を掲げるデモンストレーション([[ブラックパワー・サリュート]])を行い、大会から追放された。フォアマンの行為は偽善愛国者と誤解され、同胞の黒人から非難されてしまった<ref>[[原功 (ボクシング)|原功]] 『ボクシング名勝負の真実 世界編』、ネコ・パブリッシング、2006年、194-195頁。</ref>。
*95年4月46歳にしてIBF世界王座初防衛成功したが、同時期に[[平和のための平壌国際体育・文化祝典]]で主催の[[新日本プロレス]]の創始者・[[アントニオ猪木]]は当初、フォアマンとの対戦を希望したがフォアマンは「とんでもない。北朝鮮になど行かない。俺は第一に愛国者、第二にボクサーだ。わが国が北朝鮮と外交関係を持っていない以上、俺がそこに行くなんてありえない」と拒否。1974年[[キンシャサの奇跡]]で最初に世界王座君臨していたフォアマンをKOして世界王座奪取し1976年[[アントニオ猪木対モハメド・アリ|猪木と対戦]]したアリが来賓として参加。
* ボクシングで稼いだ金を更生施設の建設につぎ込むなど、社会奉仕活動を積極的に行う人柄が人々から慕われ、体と器の大きさを讃えて「'''ビッグ・ジョージ'''」という愛称を持つ<ref name="nikkeibp20090910" />。
* 最初の王者だった頃は不愛想で、周囲に殺気を放つような人物だった。引退後、宗教活動を通じて心の平穏を得ると、柔らかな表情とユーモアのあるコメントでファンに愛されるキャラクターとなった。また、100kg前後だった体重が復帰後は120kgまで増加し、頭髪も丸めていたため、外見のイメージも一変していた。
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* [[国際ボクシング名誉の殿堂博物館]]
* [[世界ボクシング殿堂]]
*[[リングマガジン カムバック・オブ・ザ・イヤー]](1994年)
* [[リングマガジン ファイター・オブ・ザ・イヤー]] - 2度受賞(1973年、1976年)