削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
196行目:
 
=== 北樺太(北サハリン) ===
北樺太は、[[樺太・千島交換条約]]以来のロシア領であり、[[ロシア帝国]]時代は[[沿海州]]、[[ソビエト連邦]]時代は当初は日本の[[シベリア出兵]]によって時発生した[[尼港事件]]を受け、[[1920年]]7月〜[[1925年]]5月15本国の約5年間実効支配日本の[[サガレン州派遣軍]]による保障占領下にあったが、1925年(大正14年)に日ソ国交樹立で日本軍が撤退すると[[ハバロフスク地方]]として置かれ、その後はサハリン州に属し、ロシア連邦となった現在も引き続きサハリン州に属している。主な都市は[[オハ]]や[[アレクサンドロフスク・サハリンスキー]](日本名:オッチシ・落石)である。[[オハ油田]]、[[サハリンプロジェクト]]([[サハリン1]]、[[サハリン2]])が代表的な石油産業である。
 
== 歴史 ==
253行目:
|}
* [[1808年]] - 江戸幕府が、[[最上徳内]]、[[松田伝十郎]]、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎は樺太最西端[[ラッカ岬]](北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。
* [[1809年]] - [[間宮林蔵]]は樺太が[[島]]であることを確認し、呼称を北蝦夷地と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献<ref>[https://www.city.wakkanai.hokkaido.jp/files/00006900/00006975/dai5syou.pdf 樺太詰松田伝十郎の山丹交易改革 稚内市]</ref>した。また、[[山丹貿易]]を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。<!--(誤解を与える記述です。山丹貿易は外国との貿易なので、アイヌが日本人ならば鎖国政策に反します。)来航する山丹人との交易なので矛盾しない。日本人が交易できないと言うなら、長崎交易すらできないことになる-->
* [[1821年]] - 幕府、全蝦夷地を[[松前藩]]に返還する。
* [[1848年]] - ロシアの東シベリア総督[[ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキー|ムラヴィヨフ]]は海軍軍人[[ゲンナジー・ネヴェリスコイ]]にアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。間宮海峡を初めて船舶で通過した。
323行目:
* [[1920年]](大正9年)
** [[5月1日]]、[[大正]]9年勅令第124号(樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件)<ref>[{{NDLDC|2954436/1}} 勅令第124号] 官報 大正9年(1920年)5月3日</ref>公布。樺太に施行される法律に[[勅令]]により若干の地方的又は種族法的な性質を有する特例を設けるとされた。ただし、勅令第124号廃止まで準内地的扱い。
**[[シベリア出兵]]の際[[尼港事件]]の発生を受け、7月、日本は[[サガレン州派遣軍]]を派兵し北樺太を'''保障占領'''<ref>[https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/52284/1/ES_62%283%29_031.pdf 保障占領下北樺太における日本人の活動 (1920-1925)竹野 学]</ref>する。
* [[1923年]](大正12年)[[8月2日]] - [[8月7日|7日]] - 詩人・作家の[[宮沢賢治]]が、樺太を訪れる。[[大泊町|大泊]]に上陸し、[[栄浜村|栄浜]]に向かう。帰路、豊原に立ち寄る。
[[File:Russian hamlet in Karafuto-2.JPG|thumb|right|220px|樺太のロシア人集落<br>1930年(昭和5年)頃]]
* [[1925年]](大正14年)[[5月15日]] - [[日ソ基本条約]]締結にともない北樺太から撤兵する。条約により北樺太の天然資源の利権を獲得。
* [[1929年]](昭和4年)
** [[拓務省]]の設置に伴い、[[樺太庁]]がこれに編入される。