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{{出典の明記|date=2017年8月19日 (土) 12:45 (UTC)|ソートキー=人1560年没}}
{{基礎情報 君主
[[ファイル:FrancoisII.jpg|right|thumb|フランソワ2世]]
| 人名 = フランソワ2世
| 各国語表記 = François II
| 君主号 = フランス王
| 画像 = FrancoisII.jpg
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1559年]] - [[1560年]]
| 戴冠日 = [[1559年]][[9月21日]]
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 = [[1544年]][[1月19日]]
| 生地 = {{FRA987}}、[[フォンテーヌブロー宮殿]]
| 死亡日 = [[1560年]][[12月5日]]
| 没地 = {{FRA987}}、[[オルレアン]]
| 埋葬日 = [[1560年]][[12月23日]]
| 埋葬地 = [[サン=ドニ大聖堂]]
| 配偶者1 = [[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]
| 子女 =
| 王家 = [[ヴァロワ家]]
| 王朝 = [[ヴァロワ朝]]
| 王室歌 =
| 父親 = [[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]
| 母親 = [[カトリーヌ・ド・メディシス]]
}}
'''フランソワ2世'''('''François II de France''', [[1544年]][[1月19日]] - [[1560年]][[12月5日]])は、[[ヴァロワ朝]]第11代[[フランス王国|フランス王]](在位:[[1559年]] - [[1560年]])。父は[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]、母は[[カトリーヌ・ド・メディシス]]で、[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]、[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]の兄である。[[スコットランド王国|スコットランド女王]][[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]を王妃とした。
 
== 生涯 ==
長い間子供に恵まれなかったカトリーヌが授かった最初の男子で、[[1545年]]父アンリが国王として即位すると王太子([[ドーファン]])となる。しかし、[[耳鼻咽喉科学|耳鼻咽喉科]]系の先天性の持病を持っており、始終耳の後ろ側から膿を吹き出し<ref>佐藤、p. 290</ref>、口も半開きにすることが多く、[[耳鼻咽喉科学#口腔・咽頭科学の代表的疾患|咽頭扁桃肥大症(アデノイド)]]の症状を表していたという。
 
[[15561558]][[4月24日]]、フランソワはフランスで育てられていたスコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]と結婚する<ref>佐藤、p. 292</ref>。1559年、アンリ2世が不慮の事故で死去すると、フランソワ2世として即位した。フランスの法では、15歳のフランソワ2世は成人とみなされ、[[摂政]]を必要としないが、フランソワは若く、政治の経験もなく、しかも持病があった。その結果、フランソワ2世は大臣たちに母カトリーヌから指示を受け取るよう命令した。しかし、カトリーヌは夫を失って深い悲しみに浸っており、指示を下せる状況になかった。カトリーヌが大臣たちに王妃の外戚である[[ギーズ公]][[フランソワ (ギーズ公)|フランソワ]]から指示を仰ぐよう伝えた結果、王妃たち一族が実権を握り、[[プロテスタント]]を弾圧した。カトリーヌ・ド・メディシスはこの措置に同意した。
 
1560年年末も近い晩秋、フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、[[中耳炎]]と診断される<ref name=S297>佐藤、p. 297</ref>。侍医は開頭手術を提言したが母[[カトリーヌ・ド・メディシス]]はこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、[[脳炎]]を引き起こして死亡した<ref name=S297 />。16歳であった。王位はその後、弟[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]、[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]が継承した後、男子が絶えてヴァロワ朝は断絶する。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』 講談社現代新書、2014年
 
{{フランス君主}}