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'''司馬 元顕'''(しば げんけん、[[382年]] - [[402年]])は、[[中国]][[東晋]]の[[皇族]]。東晋皇帝[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]の実弟[[司馬道子]]の子、司馬彦璋、司馬秀熙(司馬法興)、司馬天助の父、司馬元伯の祖父
 
== 生涯 ==
東晋皇帝[[孝武帝 (東晋)|孝武帝]]の実弟[[司馬道子]]の息子である。父が酒色に溺れて暗愚だったのに対し、聡明で意気も旺盛で人心を読む事にも長けていたといわれる<ref name="新十八史略136">駒田『新十八史略4』、P136</ref>。父の道子が[[398年]]に[[王恭]]の乱で自暴自棄になって酒に溺れると、実権を譲られた元顕は王恭配下の[[劉牢之]]に北府軍総帥の地位を約束させて寝返らせ、王恭を斬殺した<ref name="新十八史略136"/>。続いて王恭と結託して挙兵していた[[殷仲堪]]に対しても配下の[[桓玄]]に西府軍総帥を約束する事で寝返らせ、殷仲堪を自殺させた<ref name="新十八史略137">駒田『新十八史略4』、P137</ref>。
 
399年に道子が酒色が過ぎて体調を崩すと、元顕は人望も能力も無い父を廃して自らが全権を握るために[[安帝 (東晋)|安帝]]に願い出て父が兼務していた[[司徒]]・[[揚州]][[刺史]]の職を解任させて自らがそれに就任し、全権を握って私腹を肥やし、その私財は朝廷をも凌ぐにいたった<ref name="新十八史略139">駒田『新十八史略4』、P139</ref>。この年に[[孫恩の乱]]が起きているが、これは元顕の所領である[[会稽]]において元顕が[[荘園]]の[[農奴]]を酷使し、さらに兵役にあてた事が原因だった<ref name="新十八史略139"/>。元顕には独力で鎮圧はできず、北府軍の劉牢之に命じて鎮圧させている<ref name="新十八史略141">駒田『新十八史略4』、P141</ref>。この反乱で朝廷の軍事力が無力化している事を見た西府軍の桓玄は、[[孫恩 (東晋)|孫恩]]の反乱の際に東上しようとして元顕に拒まれていた事を恨みに思っていた事もあり、挙兵して東上した<ref name="新十八史略143">駒田『新十八史略4』、P143</ref>。
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=== 引用元 ===
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== 参考文献 ==