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寵愛する戚夫人の懇望に加えて、皇太子に立てていた[[恵帝 (漢)|劉盈]]に対して父である劉邦自身がその資質にかねてから疑問と不安を抱いていたこと、さらに仁弱な盈とは対照的に如意が活発な子供であったことから、劉邦も徐々に盈を廃嫡して如意を立てることを考え始める。
 
しかし、劉邦が皇太子の交代を重臣たちに諮ったものの、重臣たちはことごとく反対した。さらに、劉邦の信任が厚い[[張良]]の助言を受けた盈が、かつて高祖が招聘に失敗した有名な学者たち([[商山四皓]])を自らの元に招いたことが決定打となり、劉邦は盈を皇太子にとどめることを決め、如意は[[趙]]王のままとされた。
 
このことから、戚夫人母子は盈の生母である[[呂雉]]に憎まれることとなり、紀元前195年に劉邦が死去して盈([[恵帝 (漢)|恵帝]])が即位すると、[[皇太后]]となった呂雉による報復が始まる。