「辛亥革命」の版間の差分

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[[File:Wuchangqiyi paobing.JPG|left|200px|thumb|武昌起義での革命軍砲兵]]
 
新軍工程営後隊正目(班長に相当)の[[熊秉坤]]等は予定を早めて蜂起することを決定、隊官の[[呉兆麟]]を決起軍臨時総指揮、熊秉坤を参謀長とすることを決定した。1911年10月10日20時(この時間は正確な考証を経たものではない)、[[程定国正瀛]]による武昌起義は発動され、決起兵士は軍の武器庫を襲撃、深夜になると文学社及び共進会の影響を受けた大部分の兵士が呼応した。呉兆麟、熊秉坤は決起部隊を指揮して総督府を攻撃、南湖砲隊の砲撃の下、夜明け前には総督衙門を占拠、湖広総督・瑞澂は逃亡した。
 
[[10月11日]]未明、決起軍は湖北省咨議局大楼會議室に集結し、新軍八鎮十五協二十九標二営司務長・[[蔡済民]]により会議が招集され、軍政府の組織と都督人選が議論された。革命党の[[呉醒漢]]、[[徐達明]]等10数名以外、咨議局議長[[湯化龍]]、副議長[[張国溶]]及び議員、旧軍官呉兆麟が参加した。会議は湯化龍が議長となり進行し、呉兆麟により第21混成協統領[[黎元洪]]を都督とすることが提案され、立憲派により承認された。この時革命党勢力は[[黄興]]、[[宋教仁]]は武昌におらず、[[彭楚藩]]、[[劉復基]]、[[楊宏勝]]は被害を受け、孫武は爆発事故で負傷、[[蒋翊武]]は逃亡中であったことより他の有力な提案が行われず、黎元洪を都督、湯化龍を民政総長(一説には総参謀とも)に選出することが決定した。
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[[10月31日]]、南昌同盟会の[[蔡公時]]は新軍による武装蜂起を実行、江西軍政府が成立し[[李烈鈞]]を都督に選出した。
 
[[11月3日]]、上海同盟会、光復会、上海商団の[[陳其美]]、[[張承槱]]、[[李平書]]、[[李英石]]、[[李燮和]]等は上海で武装蜂起を決行、張承{{lang|zh|槱}}、[[劉福]]等が組織した[[青]][[洪幇]]による決死隊、李平書と[[李英石]]による上海商団の武装集団、李燮と連絡を取った[[呉淞]]地区で蜂起した軍・警察蜂起部隊の[[朱家カ|朱家{{lang|zh|驊}}]]、[[徐霽生]]等により組織された中国敬死団がその中心となった。4日には[[江南制造局]]を占拠、[[上海光復]]が実現している。8日に中華民国軍政府滬軍都督府が成立、陳其美を都督に選出した。
 
[[11月4日]]、貴州革命党の[[張百麟]]を中心として新軍及び陸軍学堂学生により武装蜂起が実行され[[貴陽市|貴陽]]を占拠、大漢貴州軍政府が成立し、貴州新軍第一標教官兼講武堂堂長、陸軍小学堂総弁の[[楊ジン誠|楊{{lang|zh|藎}}誠]]を都督、[[趙徳全]]を副都督に選出した。
 
同日、浙江光復会会員であり杭州に駐在する新軍八十一標標統[[朱瑞]]、同盟会会員の新軍八十二標[[周承菼]]部軍官[[呉思豫]]、[[呂公望]]、[[蒋百里]]、[[蒋百器]]、[[楊廷棟]]、[[呉肇基]]、光復会の[[王文慶]]は上海より決死隊を率いて武装蜂起を決行、[[杭州市|杭州]]を攻撃した。朱瑞、呉思豫、呂公望等は八十一標及び光復会[[王金発]]により決死隊により軍機局を、[[周承菼]]統八十二標と同盟会[[蒋介石]]、光復会[[尹鋭志]](女性)等は撫台衙門を占拠、楊廷棟率が兵を率いて巡撫府を包囲、巡撫増{{lang|zh|韞}}を捕虜とした。5日に革命勢力は杭州を支配、立憲派であった咨議局議長の[[湯寿潜]]を都督に選出した。
 
[[11月5日]]、江蘇省の立憲派及び紳商は江蘇巡撫[[程徳全]]に対し[[蘇州市|蘇州]]の独立宣言を要求、江蘇革命軍政府が成立し程德全が都督に就任した。