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== 日本史学史における文化史 ==
[[日本史]]研究は[[東京帝国大学]]にお雇い外国人の[[ルートヴィヒ・リース|リース]]がやってきたことから始まる。リースは近代歴史学の父言われる[[レオポルト・フォン・ランケ|ランケ]]の弟子であり、その歴史学は実証主義を重んじるものであった。それ以後東京大学の学風は[[実証史学]]と称された。一方、日本で二つ目の史学科が開設された[[京都帝国大学]]では設立時は東京帝国大学卒の[[内田銀蔵]]や[[法制史]]にあつい[[三浦周行]]が教授を務めていたが、東京帝国大学に対抗する形で異なる学風を作り出す土壌があった。彼らの元で京都帝国大学に[[文化史学]]の学風を生み出すのは[[西田直二郎]]と[[中村直勝]]である。前者は精神史的文化史、後者は社会史的文化史の学風を以って京都帝国大学で'''文化史'''の歴史学分野の確立に大きく寄与した。しかし、両名が戦後[[公職追放]]に会い、西田の直系の[[石田一良]]が[[同志社大学]]に、中村の直系の[[林屋辰三郎]]が[[立命館大学]]の教授に着任した一方、京都大学の専任教授には[[小葉田淳]]と[[赤松俊秀]]といった文化史学の学風を持たない人選が行われた結果、戦後の[[京都大学]]の国史研究室に文化史の学風は残らなかった。また、戦後の京都大学国史研究室は、特に中世史において[[マルクス主義歴史学]]の牙城となり文化史学の学風は忘れ去られ、立命館や同志社が京都の文化史研究の中心地となった。
 
== 新しい文化史 ==