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[[Image:Bashkirtseff - In the Studio.jpg|thumb|300px|「アカデミー風景」([[マリ・バシュキルツェフ]]作)<
'''アカデミー・ジュリアン'''({{lang-fr-short|''Académie Julian''}})はかつてフランスの[[パリ]]に存在していた私立美術学校。
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元々は官立美術学校[[エコール・デ・ボザール]]を目指す為の準備学校(プレパ)だったが、次第に独自の美術教育を施すようになる。もっとも特殊な点としてボザールが女人禁制であるのに対し、女性の入校を許可していた点が挙げられる。ただしアカデミージュリアンでも男女差が一切無かった訳ではなく、性別毎のコースに分けられる伝統があった<ref name="farmer">Farmer, J. David. [http://www.californiaartclub.org/newsletter/articles/article_julian1.shtml"Overcoming All Obstacles: The Women of the Académie Julian,"] ''California Art Club.'' April/May, 2000.</ref>。そして、各コースも[[6区 (パリ)|パリ6区]]、[[8区 (パリ)|8区]]、[[9区 (パリ)|9区]]に展開していった。
ジュリアンの開かれた教育姿勢は第二の[[:en:Académie Colarossi|アカデミー・コラロシ]]([[イタリア系|イタリア系フランス人]]の画家フィリッポ・コラロシによる私立美術学校。同じく自由な気風で知られていた。)とも言うべきもので、女性だけでなく[[アメリカ]]を初めとする他国からの美術留学も積極的に受け入れた<ref name="russell">Russell, John. [http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=950DE4D61E30F93AA25750C0A96F948260 "An Art School That Also Taught Life,"] ''New York Times.'' March 19, 1989.</ref>。硬直的なボザールのアカデミズム教育に対抗するアカデミージュリアンの存在感は増していき、最終的に本来はボザール内のコンテストであったイタリア留学を賞品とする[[ローマ賞]]への参加資格まで与えられた<ref name="chilvers6">Chilvers, Ian, ed. (2004). "Académie," {{Google books|WYaRX58a0_IC| ''Oxford Dictionary of Art,'' p. 5-6.|page=5}}</ref>。
画家としては然程は名を残さなかったロドルフェ・ジュリアンは教育者としては一流の手腕を持っていた。彼はボザールに対抗する革新的な教育を施す一方、優秀な画家であればボザール出身者でも教官に招致する柔軟さを見せた。アカデミズム絵画の最後の巨頭とされる[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]も教官として生徒を指導した経験を持っている他、[[ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル]]なども教官を務めた。
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アカデミー・ジュリアンの規模は拡大を続け、幾つかの分校も設けられた。時代が[[反アカデミズム]]に傾くとますます影響力は高まり、[[ナビ派]]の結成もアカデミー・ジュリアンの学生が中心となって行われている<ref name="tate"/>。
1968年、創立から百年目に新興の美術学校[[
== 学んだ画家 ==
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==出典==
<references/>
{{DEFAULTSORT:あかてみしゆりあん}}
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[[Category:美術系教育機関]]
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