「ロアール・アムンセン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m →‎top: 空白を取ります
22行目:
=== 北西航路横断航海 ===
[[ファイル:Gjøa.jpg|thumb|180px|ヨーア号。1913年撮影。]]
20世紀の初頭において、[[大西洋]]側から[[太平洋]]側へアメリカの北を回って航海する「[[北西航路]]」は、欧亜間の最短航路になりうると考えられていた。[[16世紀]]以来ヨーロッパの多くの航海者が挑戦してきたが氷に阻まれ誰も成功せず、[[19世紀]]に入ってもイギリスの[[ジョン・フランクリン]]率いるイギリス海軍の艦隊がカナダ北方で全滅するなど多くの犠牲者を出してきた。[[フランクリン遠征|フランクリン探検隊の失踪と全滅]]はアムンセンに大きな印象を与え、北西航路横断に挑みたいという願いが高まった。[[1903年]]、アムンセンは借り入れにより探検活動費用を整え、装備と船やめ差し押ようとする債権者から逃げるようにして、乗員6名とともに47トンのエンジン付き鋼製漁船ヨーア号(Gjøa)で大西洋から北西航路へ入った。
 
彼は[[バフィン湾]]・[[ランカスター海峡]]・[[ジェイムズロス海峡]]・[[レイ海峡]]と、東から西へ向かう航路を選んだ。[[キングウィリアム島]]と[[ブーシア半島]]の間の[[レイ海峡]]([[:en:Rae Strait|Rae Strait]])は新しい氷が多く比較的航行可能で、この選択が成功のもとになった。ただし水深がわずか1mと非常に浅い部分があり、ヨーア号だから航行できたものの、それより大型になる商船の通過は不可能な航路であった。
42行目:
 
当初スコット隊に比べて不利と思われていたアムンセンが先に到着したのは、スコット隊が学術調査を兼ねて長いルートを選んだ上、故障しやすい[[内燃機関]]を利用した[[雪上車]]や、体重が重く雪中での行軍に不向きな[[馬]]、牛革を重ねた形状の防寒服(防寒性は優れているが、耐水性に劣る)を採用していたのに対し、アムンセン隊は先述の極北航海の際に得た知識や経験を参考に、体重が軽い犬を利用し、自身で軽量化を施した[[犬ぞり]]を採用したこと(犬は非常時の食料も兼ねていた)や、耐水性に優れた[[アザラシ]]の[[毛皮]]服を採用したことが理由のひとつとしてあげられる。南極点に作ったテントには、帰途に全員遭難死した場合に備え、2着の到達者にあてて自分たちの初到達証明書として持ち帰ることを依頼した手紙を残している([[ロバート・スコット#パーティーの遭難]]も参照)。
 
帰還後は多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済した。特にアメリカにおいては英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間をアメリカで過ごした。一方で、自国の悲劇の英雄スコットをひいきにするイギリスでは冷たく扱われた。独立間もないノルウェーにおいては、国民のナショナリズムを喚起し、国民的英雄となった。
 
=== その後 ===
[[File:Roald Amundsen LOC 07622u.jpg|thumb|1913年のアムンセン]]
帰還後も[[Do J|ドルニエ・ワール飛行艇]]や[[ノルゲ (飛行船)|飛行船ノルゲ号]]による[[北極点]]通過を行い、人類初の両極点到達など精力的に活動した。[[1927年]]には[[報知新聞]]の招待で来日している。新発明である飛行機や飛行艇を探検に使うことに熱心であり、その購入や探検費用に講演収入を使い果たし、破産の憂き目にもあった
 
1928年、[[北極]]を飛行機で探検中に、近くで遭難した[[イタリア (飛行船)|飛行船イタリア号]]による[[イタリア]]探検隊の[[ウンベルト・ノビレ|ノビレ]]隊の捜索に[[ラタム 47]]で赴き、行方不明となる。
57 ⟶ 59行目:
* ロアール・アムンセン著 『南極点』ドルフィンプレス のち 朝日文庫
* [[本多勝一]]著 『アムンセンとスコット』教育社 のち 本多勝一集(朝日新聞社)にも収録
* スティーブン・R. バウン 著『最後のヴァイキング――ローアル・アムンセンの生涯』図書刊行会
 
== 関連項目 ==